谷口忠大先生インタビュー(その2)

記号創発と、ロボティクス・AI研究と人文科学の連携

【ーー】  すこし話が戻りますが、現在進行形でロボティクス研究者なり人工知能研究者が悩んでいて、哲学者と一緒に考えたいという問題として、何かぱっと思い浮かぶものがあれば、お聞かせください。
【谷口】  僕、独特ですよ、多分。
【ーー】  構わないです。
【谷口】  僕は、もともと情報の自己組織化として知能が、認知システムが生まれて構成されて、これはピアジェのシェマシステムとかシェマ理論というようなところを計算的に表現する、というようなことに興味がある。発生的な認識ですね。
その上にさらに言語現象そのものがボトムアップに構成されるという描像を持っている。だから要は……、僕、言語がフィックスなシステムである――言語の体系というのが固まったシステムであるという視点に対して徹底してアンチなんです。だけど相対主義には落ちないというところですね。そこが僕の学術的な使命というか、あれなのです。そこを齟齬のない形で描いたのが記号創発システムという描像なんですよね。記号の体系がボトムアップにできて、それがトップダウンに制約をかけてくると。つまり記号を用いるにはその言語に従わねばならないと。構築主義とかを持ち出すまでもなく、言語というのは我々に対して非常に支配的な影響を及ぼすわけですが、それもちゃんと説明できないといけない。だからといって言語というのは2000年変わらないものではなくて、非常に速い速度で語彙は変わっていく。まあ、シンタックスはかなり固いんですけど。言語は変わっていくようなものであるというのも、やっぱり捉えないといけない。我々は個人レベルでもナンボでも言語をつくることができる、語彙とかを。というふうな「生成的」な部分も捉えないといけない。それでいて何かしら言語がシステムとして安定性を持っている、動的な平衡状態にあるということも捉えないといけない。そういうようなものを取りあえず捉えるというのが記号創発システムという描像なんです。その描像の下で、それを構成論的にアプローチするんだというのが記号創発ロボティクスという僕の位置づけなんです。
 で、それを描いたときに……、それは構成論的なモデルなので、ロボティクスのためのものというよりかは人間理解のためのものなんです。だけど僕自身は、人間理解の人文社会科学のフィールドにはいないし、そこでダイレクトで戦えるだけの基礎もない。つまり社会学であるとか哲学であるとか、そういうふうなものにその話を援用していくというところまではなかなか行けない。自分の記号創発システムという人文社会科学的な理論を立てる時に「そもそもおまえの言ってる記号創発システムって何ぼのもんやねん」、「そんなん口先で言ってるだけでどこにもエビデンスもないやろ」みたいなところがあって、だからそれをある意味、説得的(コンビンシング)なものにしていくために構成論的な成果を積んできた10年間、もう15年間ぐらいかな、やと思っています。著作もあり、理工系での研究成果もあり、人工知能部分がちょっとだけ追い風を吹かせたこともあって、いろいろ哲学系の人にも、心理学系の人とかにも認知していただいて、「谷口の言っていることはなかなか面白い、納得し得るし、俺もイケてると思う」みたいなことを言ってくれる人たちが増えてきたかなと。
 やっぱり僕としては、例えば今、まさにそういう研究会をやらせてもらっているんですけども、「じゃあ記号創発システム論で言っているところと、例えばプラグマティズムにおけるパースの記号論というのはどう接続して、この記号創発システム、記号創発ロボティクスで言っている記号観というのはどうプラグマティズムのところ、広くは記号論というところと接続し得るの?」とか。
いわゆる記号主義、表象主義と言われるところの、AIの分野だとシンボリックAI、記号主義的なAIと言われるものは、僕の認識している限りにおいては記号論理学、数理論理学。哲学分野でも最初のほうに結構学ばれるものだと思いますけども、そことの結合がすごく強いわけですよね。そこの記号概念というのが輸入されてきて、それがAI議論を通して、認知科学、AIの議論が拡大解釈されて、「記号」という言葉の意味を、そこのレベルのものをかなり広めてしまったと。
一方で記号論とか記号学における記号というのは、社会において人間が使っている自然な記号であって、広範な概念だと思うんですよね。要は例えば人間ロボットインタラクションにおける記号的コミュニケーションとかになると、これは計算機科学とか論理学の意味での記号ではなくて、記号論とか、もっと何か身近なところでの記号なわけですよね。生活レベルの中での記号といいますか。そういう、要は記号とは何かというところにおいて、思想のぶつかり合いというか境界線があって、プラグマティズム的な記号観というのをもっと人工知能の中に浸透させていかないといけないんですよね、本当は。
ところが前者の記号主義の記号観が記号接地問題とかに絡んでも非常に一面的なものが拡大解釈されて、変に理解されているから危なっかしい。
記号創発システム論の展開では、「そこに橋を架けたい」みたいな思いがあります。そういう学術的貢献って多分プラグマティズム系の思想の文献とかを十分読んでいてそれを理解できる人しか無理だと思うので、期待するというのもあるし。
 すみません、プラグマティズムだけでこんなに使っちゃった。
 あと、例えば、東大情報学環におられた西垣通先生とはもともとすごく共鳴するところがあって、その門下の研究者のみなさんとも仲よくさせていただいています。ネオサイバネティクス、システム論、オートポイエーシスとかがキーワードとなるところ。
実は今、書籍の企画をその辺のメンバーともやっていて、記号創発システムと西垣通先生が基礎情報学の本とかで書かれていた階層的自律コミュニケーションシステム――HACSという概念があるんですけども、そこをどう架橋できるかと。多分、ネオサイバネティクスと記号創発システム論には非常に共通しているところがあると思っていて、ただ、そこをきちんと組めないと、というところなんですね。
ちょっと戻りますが、人文社会科学と記号創発システムの相互作用に関して、もう一つ。カテゴリー概念とか記号概念というものに対して、やっぱりボトムアップに生まれてくる面と、トップダウンに、世界がそういうふうに呼んでいるからそうなんだというふうに規定してくる面とのせめぎ合いの中で、我々の言語の、言葉の意味というのは変わっていくし、誰か特権的な地位にある人からのオーソリティーがその境界を決めているわけでもないよねという感覚があります。そういうダイナミクスで見ると、ジェンダー論とかフェミニズムの話とかって、非常にいろんな論の立て方があるわけですけども、やはり社会構成主義で記号の恣意性から始まって、恣意的に決められた性というものがあって、だからそれは無効化していい、みたいな論理構成をすることがしばしばあります。ちょっとこれは極端な表現かもしれないですけれど。そやけど記号創発システム的な視点から言うと、やはりボトムアップにそれが形成してきた機能(ファンクション)めいたものも当然にしてあるわけです。良くも悪くも、ですが。その揺らぎの中で仕方なく動くものは、そのファンクションを1回崩してしまうと、やはり要は差異を破壊することによって、それまでの差異があるがゆえのメリットみたいなものが崩壊していくみたいなところが当然にしてあるわけですよねと。そういうようなことも冷静に議論しないと、結局、平等をつくるはずがルーズルーズ関係になってしまうと。どうにも現在、そういうことに起因する不幸が生じている気がするんですよね。
何というか、動的な機構像というのを援用していくことによって人文系の議論を構築していったり、より僕が、あくまで何だかんだ理工系の出自の中で理論化というか、語っていることのより精緻化であったり、より広がりというのが得られると思う。そういうことは絶対に僕だけじゃ、絶対に理工系の人間だけじゃ絶対にできないので、それはやっていきたい、力を借りたいという。
【ーー】  なるほど。非常に大まかに言えば、構成主義のように我々は世界をどうとでも分割できる、カテゴライズできるというのも極端過ぎるし、逆に、我々はたんに世界自体の在り方をただ写し取っているだけだというのも極端過ぎて、その中間の、どちらの要因もあるんだというのを実証的にモデル化していっているので、それにちょうど対応する人文科学の見方を見つけたいと。
【谷口】  そうです、そうです。さすが鈴木先生。完璧なまとめですね。何か第三の道的なものですけど、第三のこの道ってやっぱり歴史的に議論的に弱かったと思うんですよね。両サイドのほうが分かりやすいといいますか。だから、要はイデア的というかトップダウン的な世界観だとアプリオリすぎて、ボトムアップ的な世界観では恣意的だと言っちゃう。ソシュールに関する丸山先生の著書かな? 出典を忘れてしまいましたけれど、「記号における恣意性というのは『好き勝手』という意味じゃない」と明言されていました。だから何というのかな、「完全に先に決まっているというわけではないという程度だ」みたいなことを言われていて。まさにそのとおりだと思いました。
例えば、物体のセグメント(領域)、カテゴリー(分類)みたいなものって、単純にデータの分布としてセンサー情報の分布で相当わかっちゃうわけなんですよね。だからそれを普通に写し取って情報の縮約をするだけでも結構そのカテゴリーってできちゃうみたいなところがあって、それをまとめることによる機能というのも明確にあるわけなので、だから、言語というものを特別視すると接地しないんだけど、特別視しなければある意味単なる人間の環境適応の文脈で議論できちゃうんですよね。少なくともそれができる範囲のことぐらいについては受け入れてしまえばいいんじゃないのというところです。
【ーー】  そういう意味では、人文科学の言語に関するいろいろな見方の中で、どれが組める、仲間にできるもので、どれが批判すべきものなのかというのを明確にする、組むべき相手と組んで、批判すべき敵を一緒に批判していけるというのがやりたいことという感じでしょうか。
【谷口】  そうですね。もしくは、どんどん、どんどん仲間にしていくんですよね。だから僕、思想というのはそうだと思うんですけど、結構これも二項対立で議論していくというのは非常に欧米的じゃないですか。日本人はそれが苦手というのもあるかもしれないけれども、やっぱり結構なものが……、これは僕の科学観というかなんですけど、新しい理論が提示されると一般化されて吸収されちゃうみたいなことってしばしばあるわけです。例えばベイズ的なアプローチと、確率モデルのアプローチと、ニューラルネットワークのアプローチみたいなのって、両サイド、水と油じゃないけど、「どっちが正しいか?」みたいな感じのムードが20年前ぐらいもありました。僕が学生時代、ポスドクとかの時代、若手の頃から、尾形先生はリカレントニューラルネットワーク、僕は、これは博士以降なんですけども階層ベイズみたいなモデルを使っていくのが多くて、でも「僕としてはこれらは将来的にマージされるべきものだと思っている」と尾形先生によく言っていました。なぜならば取り扱っているものが微妙に違うので、それは別に反するわけではない。当時はなかなか難しかったけども、今まさにディープラーニングの中に深層生成モデル(ディープジェネラティブモデル)という、確率モデルの中でニューラルネットワークを使うようなモデルがありまして、それがまさにほぼほぼ尾形先生のアプローチと僕のやったアプローチを両方包含してくれるみたいなものです。
 それと一緒で……、すみません、また話が曲がっちゃいましたけど、やはり二項対立で誰が敵かということもありながら、みんなが中心的に持っている疑問(クエスチョン)みたいなことに答えられる理論というか、二項対立したものを両方とも含んでしまえるような、その対立を解消してしまうような議論というのもあり得ると思うので。
【ーー】  あなたたちが言っていたのはじつはどちらも部分的には正しくて、それはオレの理論で統合できるんだというのがベストだという。
【谷口】  そうそうそう。ちなみに時代的には多分この第三勢力というのは、初期においては派閥……、派閥というか勢力が弱い、小さいので、できるだけインクルーシブに行かないとマイノリティーで終わってしまう気がします。
【ーー】  そうですね。だから、どっちからもコウモリ野郎と言って叩かれてということにはなりがちですね。
【谷口】  そうです、そうです。
【ーー】  とくに、人文科学、というか哲学だと、極端なことを言うほうが哲学的な主張としては面白いので、これは全部夢だとか、そういう極端な主張のほうが面白いとかいうことはあるので、折衷的な立場だとつまらないと言われてしまうということもあるかもしれません。
【谷口】  それもすごく重要なところだと思っていて、やはり僕、じゃあ人文でシンプルに戦い切れるかといったら、多分僕は戦い切れないところがあって。体力的なものも……、体力的というか、議論って体力要るじゃないですか。それがあって、で、鈴木先生の……、ごめんなさいね、ヨイショするわけじゃないんだけど、鈴木先生の『実験哲学入門』を読ませてもらっても、ある種のシンパシーを感じたところもやっぱりあるんですけど、やっぱり、よって立つエビデンスというのが後ろから援護射撃をしてくれたり支えてくれたりするというのは、多分そういう議論を戦っていく上でも重要だと思って。
 だから、やっぱりその第三勢力の議論を組んでいくときに、人文社会科学の主張を組む上で、実際にロボットとかAIもろもろで実証するとこうだし、こっちのほうが正しいんじゃないですかというようなことをやっていけるのが、そういう意味でも意味あるんじゃないかなと。
【ーー】  そうですね。哲学者だけで議論しているときは、純粋に理論的にどう見るかという戦いで終わってしまうといったところは確かにありますね。
【谷口】  戦略・戦術論のたとえで恐縮なんですが、僕は哲学のフィールドで議論をするときに理工系分野からの兵たんのラインをつなげているわけですよ。後ろの支援部隊を維持させながらそこで議論を組むようなイメージですね。
【ーー】  それは哲学をやっている側にとっても非常によい武器、非常にありがたい援軍だと思うので、うまくつながる、戦線が組めると非常によいなと思います。
【谷口】  そうです、そうです。あと、記号創発システムで僕がもう一つ重要だと思っているのは、記号創発システムの考え方って非常に動的といいますか、たゆたっているというか、ある種の東洋性を持っていると思っているんですよね。
【ーー】  はい。
【谷口】  で、やっぱりシステム観としてさっきの二極化する論というのは、英米系、英米哲学かな、……ちょっと正確には分からへんけど、非常に欧米的な人は僕ら日本の人間以上に引きずられやすいと思うんですよね。そういう意味でこの我々の議論を軸にしていくと、日本発、日本の我々発らしいひとまとまりの思想群をつくれるんじゃないかなということの、これは一番野心中の野心みたいなところがあります、学術的には。
【ーー】  なるほど。西垣先生もそういうことをたまにおっしゃいますね。
【谷口】  まさにそういう意味では、ある種、西垣先生の気持ち的には継承したいというような思いがありまして。別に僕は西垣先生の弟子でもないわけですけれど。ちなみに認知発達ロボティクスに関しても浅田先生ら認知発達ロボティクスの主要な先生方の弟子というわけでもなくて、僕は出自的には外様でしかないんですけれどね。
実は記号創発システムという話も、ちょうど博士1回生のときに西垣先生の『基礎情報学』という本が出て、京大のルネという書籍センターで平積みになっているのを見つけたんです。そこに「シャノン=ウィーバーの情報理論を超えて」とかいうすごいあおりの帯がついてて、これを読んだときに、とても衝撃を受けました。僕が記号創発システムの理論的構成要素として考えていた記号論の話だったりピアジェの話であったり、オートポイエーシスの話であったり、非常に議論の要素が似ていて、問題意識も似ていて。西垣先生はもともと人工知能の研究をされていたんですけれど、その後、人工知能をある意味抜けられて社会学とか哲学的なシステム論というところにおられるわけで、その影響かわからないですけれど、やはり身体があって実情報に接地するところからボトムアップに記号の意味づけみたいなものが上がってくるところのレイヤーが、この議論やったら抜けるなという感覚がありました。
そういうこともあって、ほんまに自分の中で、博士論文は実は『基礎情報学』に対するアンサーソング(返歌)として書く、という気持ちで上梓しました。
実は博士論文を書かせていただいてから、西垣先生のところに突撃させてもらったんですよね。面識もないのに。直接メールを送って、博士論文を送らせていただいて、一回機会をいただいて西垣ゼミに発表に行かせてもらったんですよ。それで「面白い」って言ってもらいました。
そこでちょっとつながりができて、その1年後ぐらいに西垣先生が僕を訪問してくださって、その時に「NTT出版から書籍企画があるけど1冊書いてみませんか?」って言ってもらったのが、いろいろなことの始まりなんです。それでできたのが処女作となる『コミュニケーションするロボットは創れるか』という本ですね。
そういう意味ですごく御縁もあるのがあって、西垣先生がそういうふうな気持ちを持っておられるのだったら僕もちゃんと頑張っていかなあかんなと、今、あらためて思いました。
【ーー】  なるほど。

その3に続く

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