谷口忠大先生インタビュー(その1)

立命館大学情報理工学科教授の谷口忠大先生は、「記号創発ロボティクス」をキーワードに、ロボティクス研究と人工知能研究の両者にまたがり、知能の構成論的な研究に取り組まれています。また、近著『僕とアリスの夏物語』をはじめとして、一般向けの著書も多く書かれています。このインタビューでは、記号創発ロボティクスの着想に至った経緯から哲学者への期待まで、さまざまなテーマについてうかがいました。

記号創発ロボティクスに至るまで

【ーー】  本日は谷口忠大先生にお話を伺います。これまで、もう少し年齢が高い方、第2次人工知能ブームの頃から研究をされている方におもに話を伺ってきましたので、今回は若い世代の人工知能研究者にお話を伺えることになります。
 まずは、これまでどのような研究されてきたのかを簡単にお話しいただけますでしょうか。
【谷口】  どこから話そうかっていうのはあるんですけれど、一番キーワードとして立てきたのは、「記号創発ロボティクス」ですね.10年前ぐらいから、その領域名称自体をつくって推進してきました。
 2011年の人工知能学会のオーガナイズセッションで初めてその名前を打ち出しました。当時、その大会で最大の件数–20件以上の発表を集めた巨大セッションを立てて精力的が活動を開始しました。当時はちょうどAIブームの寸前ですね。
ディープラーニングが盛り上がる寸前で、まだ「人工知能」といったらセマンティック・ウェブみたいなものとか、形式的知識を形式的に記述してやるみたいなとかが人工知能学会の主流でした。第2次ブームの名残といいますか、そういうものが多かった。
あと、やっぱり「人工知能はツールとして使うもの」という認識を持っている人が多いと感じていたました。その一方で、僕自身は、人の知能、自己であったり意識であったり意思、そういう様々なもの、そういう存在そのものの根本的なものに興味があるというところがあったんですね。それまでの2000年代には、浅田稔先生であったりとか、國吉康夫先生、谷淳先生だったりといったところが引っ張られる、認知発達ロボティクスという分野が胎動してきた。ちょうど修士か博士ぐらいのところで、ブルーバックスで『知能の謎』という本が出版されて、読んでインスパイアされたりしました。人工知能学会の特集記事とかを読んで、「ああ、こういう世界観は面白いなぁ」と感じていました。構成論的アプローチ。知能を作ることで、知能を理解する。発達的な知能を考える。そういう話ですね。
 ところで大学院生の時に僕が所属していた研究室自体はそういうふうな血脈にある研究室ではなかったです。メインはヒューマンインターフェースとか人間機械系、人間と機械の関係性というのを研究していた研究室でしたね。工場やプラントでのヒューマンエラーの問題とかですね。
そういった研究テーマの中の一つとして「人間とロボットの関係性を考えよう」みたいな感じで、知能ロボットに関わることに携わるテーマが研究室の範疇にありました。じゃあ、僕はそっちよりのテーマをやっていこうかなと、研究室の中で徐々にテーマ形成を行っていったわけです。
 いずれにせよ僕自身の興味は、「人工知能」ということに関しては、やっぱりSFであったりとか、子供が夢見るところの人工知能であったりということろにある認識・行動主体としての人工知能であって、「便利な道具」づくりではなかった。
そういうふうな存在をつくりたいし、それと同時に、自分自身を理解したい。”Who I am?”と、”Where I’m from?”というクエスチョンがあって、それが自分の中での哲学的、学術的問いでした。人間の「認識」の構成――そういうふうなものをいかに研究すべきかと、考えていました。「認識」の構成を考える時に、それを発達ロボティクス的な視点からボトムアップに、つまり人間のモデルとしてのロボットをつくろうとする。
人間というのは基本的には、生まれ落ちたところから環境と相互作用しながら発達していきます。これはあらゆる赤ちゃんを見ても事実です。タブラ・ラサかは知らないですが。赤ちゃんが様々な能力を獲得する間に、僕らが1回も脳内にLAN接続をしてLANケーブルを差し込んでログインしてインストールとかそういうことはしないというのは、これはもう客観的事実なわけです。ならばそれを駆動する何らかの「ダイナミクス」が存在するはずです。
現状そのダイナミクスが不可知であっても、それ自体は実在するわけだからして、何かしらの形で表現できるはずです。だから、それを理解したいと、思うわけです。当時はそこまではっきりとは主張していませんでしたけれど。このような態度は考えてみたら物理学と一緒だと思います。
物理学では世の中を動かすダイナミクスがあって、それを記述できると仮定します。最初は微分方程式なんてなかったけど、記述の道具もなかったけど、それを記述することによってニュートン力学以降の科学をつくってきたわけです。心理学は今、実験心理学とかそういうものが主流ですけども、人間の心だってこの世界の中にあるダイナミクスであるとするならば、それは描ける、表現し得るというところですね。この辺で哲学との議論のポイントが生じるかもしれないですが、一旦それは置いておきますね。
とにかく僕はそういう世界観で立っていてということです。当時、僕はある意味、こういう態度はすごく「人工知能」の王道だと思っていました。それは今も変わらないんですけど。でも、それは当時の人工知能学会の中では端っこの端っこ、極めてマイノリティーという雰囲気でした。
記号創発ロボティクスにはもう一つ「記号」という言葉が表す言語の起源みたいなところの論点もあるんですが、それはちょっと後に回すことにしましょう。
そこから、今、岡山県立大におられる岩橋直人先生であったりとか、今、大阪大学におられる長井隆行先生であったりとか、国立情報学研究所におられる稲邑哲也先生であったりとか、あと、電気通信大学の中村友昭先生とか、そしてまた今は早稲田におられる尾形哲也先生とか、あと大学院時代からの友人で今は慶應義塾大学の杉浦孔明先生とか、そういう先生方と結構流れ的には合流しながら記号創発ロボティクスという分野をつくってきました。
いろんなモデルの提案とかをして、マルチモーダルな情報から内的な表象というか、カテゴリーの形成とか、言語の獲得のモデルを提案したりしました。言語の獲得に関して言えば、それまでは言語的なものというのは、人工知能研究では、例えば単語の単位とかそういうものは、大体もう辞書で人間が用意して言語処理できるようにしましょうみたいな研究が多かったんですけれど、そうじゃなくて音声の音列からだけである程度語彙が獲得できるよという研究とかをしていました。そういうところから様々な方向に展開して、実ロボットへの応用も含めて研究を行い、現在に至っているようなところですね。
【ーー】  ありがとうございます。
 いままでのお話に関していくつか伺いたいことがあります。1つは事実関係に関する話で、谷口先生が人工知能の研究を始められたころは第2次ブームと第3次ブームの間で、人工知能研究がかならずしも盛り上がっていなかった時期ということになるかと思います。谷口先生の大本の問題関心は、哲学でやることもできるかもしれないし、心理学でやることもできるかもしれないし、認知科学でできるかもしれないもので、いろいろな可能性があったかと思いますが、その中で人工知能を選んだことには、具体的な理由があるのでしょうか。
【谷口】  まず第一に、僕が「人工知能」というキーワードに自分を位置付けたのってかなり後なんですよね。2012年頃とかそんな頃だと思います。それまで「人工知能」というフィールドやコミュニティは正直僕にとってはアウェー感が強かったです。
人工知能学会というものには多分、博士の時代に夏の若手サマースクールみたいなもの、若手の会みたいなものに出たぐらいなのと、あとちょっと論文を1個出したくらいかな?
でもさっきも言ったように、人工知能という記号の意味自体がドリフトしているんですね、物すごく。
まさに2000年代とか2010年代の第1クオーターぐらいまでの人工知能学会における「人工知能」という言葉が表しているものは、何というか、僕には刺さらなかった。また、僕が一生懸命こう言っても、「それはそれ」みたいな感じで流されるような空気感があって、そういう意味もあって、僕は「人工知能」という言葉では自分の興味関心を定義づけていなかったなぁと。
 それで、よく言ってたのは、「いや、僕はSFの意味とかアニメの意味の人工知能には興味あるんやけど、どうもそれは学術界では人工知能と言わないらしい」と。人工知能というのはもっとオントロジーとか探索手法とかのスペシフィック(特定)な手法群のことをいうのであって、だから僕が今「人工知能」と言うとこれはミスリードになってしまうから、「人工知能」と自分の興味関心は言わないほうがいいと。そんなことを当時は言っていた気がしますね。
尾形先生の話でも、多分、身体性認知科学の話とかが出てきたかもしれないんですけども、ああいうところのほうがむしろ近かったりして、僕は修士も博士も出身は機械系で、情報系では全然ないので、知能研究というのは知能ロボットとかそういうふうなところは近いけれども、当時の言葉でいう「人工知能」というのは違うのかなと。
 アプローチについてはやっぱり、「心の問題」というのはちょっと興味があったし、心というよりかは「自分」というんですかね。
大学生になって将来どうしよう、どんなことをやっていこうと。最初は大学に残る気が全くなかったので、そやけど、研究テーマを決めていくとかそういう中で、何というか、人生に迷い出すわけですね。若い20代前半の思索。
そもそも大学生とか、修士とかは僕もまだまだ「中二病」的な時代だったわけですけれども、「そもそも僕に未来を決定する自由意志なんてあるんだろうか?」みたいなことを悩みだすわけです。
そもそも、ニュートン力学、量子力学のどっちを取ったとしても自由意志なんて存在、記述し得ないし実在し得ない。自由意志の議論では何か決定論だと自由意志が存在しなくなるから「いや、でもランダムネスが」とか考えるけどと、「ランダムネスはあっても、これは選べんな」となる。そんな中で自分自身が世界を認識する主体として立ち現れている。その一方で、思考や意思決定とかには結構、言語が関わっている。そのときには創発システムという概念とかに出会って、そこが最後の頼みの綱として僕を引き止めたわけです。要は意識みたいなものを考えたりする上でニュートン力学とか量子力学を否定する気は全くないし、それ以外のスーパーパワー、超常があるとも仮定したくない。存在したとしてもそれはニュートン力学と量子力学のダイナミクスと相互作用を起こし得ない。となると創発概念というのが唯一の抜け道かなと。
 つまり、創発現象や創発特性と呼ばれるものにおける創発の階層概念ですね。下のレイヤーではニュートン力学とか量子力学が動くんだけど、それよりも上のレイヤーでは質の違うダイナミクスが生まれて、そこで意識的な現象が起きていると。すみません、話がむちゃくちゃ行ってますけど。
 だから、言語的な思考というのとか言語的な世界というのに創発的なものでつなげられたら、そこから解明の道筋みたいなものを何とか論理的な形式で論じることができるんじゃないかというのが、最後の望みやなと。それ以外はもう俺に自由意思なんてないと思ったりして。
 分野選択の話をするつもりが全然違う道から行ってしまいましたけど、何かそういうふうなものを研究するとなったら、やはりそのダイナミクス自体をやらなければいけないと思ったわけです。外部から外部観察者視点で心の活動を眺めて実験的にやっていくというのではやっぱりそれは足らんし、それは多分同時にほかの人がいっぱい研究をやっている。だから僕がやる必要はないと。
 それでボトムアップにそういうようなダイナミクスを構成するという意味では、機械系の中で一定できるし。もちろんそれは全然、機械系という学科の王道的な研究ではまったくないんですけどね。
 で、研究室の指導教員である椹木先生というのは物すごく基本的に放置する–放置してくださるタイプでした。懐が広いというところもあって、まあ、このまま大学院に上がっていいかなと。
 ちなみに機械系って理工系なので、修士課程についてはとりあえず院進するというのはあるんですよ。マスター(修士)はほとんどエスカレーターというか、「それは行くよね?」みたいな感じで行く感じがあるので、あとは研究室選択の問題だと。先にも語ったように僕の関心事は「心」に移っていったので、だから、心理に移るとか、ニューロサイエンスに行くとか、そういう選択肢も考えなくはなかった。
 でも、僕って、何だかんだ言っても実は人生計画においては結構保守的な人間なんですよね。あまりギャンブルしないんですよね。なのでそういうこともあって、普通に上がりましょうと。それで椹木研のマスター(修士課程)2年間で学ぶうちに身体性認知学の話であったり、機械学習の話の入り口の入り口であったりとか、道具立てがいろいろ見えてきた。
 僕の初めての本、それは博士学位を取ってから出したんですけども、『コミュニケーションするロボットは創れるか』というNTT出版から出した本があるんです。あれの初めのほうに書いてあるシェマモデルという、概念分化を起こすようなモデルの話があるんですが、あれは僕の修士論文の内容になります。
 そもそも修士課程で、研究テーマとか全然決まらなかったんですけど、その中でシェマモデルの着想であったりとか今の記号創発ロボティクスにつながる情報の自己組織化として認識主体を構成するみたいな発想であったりとかが、あの2年間ぐらいの短期の中でがちがちに固まってきた。、それが聖杯(ホーリーグレイル)だと。
これを探究することならばしばらく研究テーマを尽きることなくいけるというか、これは探求するに足りるというような思いがあって、博士にずぶずぶ行ったと。
つまり、修士論文のテーマはある意味完全に泳がせてもらったところがあるので、結構そういう大きなところからテーマをやっていったので、そうなってくるとそれにかけるコストが物すごくて。実際、研究テーマらしい研究テーマが決まったのは修士2回生の秋頃でした。
だからこの修論の1本をやるためだけにこれだけいろいろ頑張って自分の中で思想を固めたところが全部無駄になるのは、あまりにコスパが悪いというか、ここまで行ったらもうちょっとやろうかなというのもあって、博士終わった後に何するかというのはまた先の話やけどとなって。そんな感じですね。

哲学的な問題関心と哲学への期待

【ーー】  いまのお話の中でも、根本的な問題は、やはりすごく哲学的ですね。自由意志であったり、意識であったり。
【谷口】  そうですね。だから今でもやっぱり哲学の問いが先にあって、僕の場合は。その哲学の問いに答えるために、要は哲学の言語的(もしくは思弁的)な議論ではやっぱりらちが明かんと。これってある意味「哲学」の論法自体がある種のシンボルグラウンディング問題を内包していると思っているからなんですよね。実験心理学のアプローチでも厳しい面があって……。厳しいというか、それぞれの手法の限界がある。となると、やはり構成するというアプローチで哲学的な問題を解いていけることがあるというのが僕の視点で、要はそのための……、これはほとんど修士の中でも気持ちは変わってないんですけども、哲学の問題を倒すために機械学習やロボティクスという道具を使っているんですよね。
【ーー】  ご著書を何冊か読んで、私もまさにそのような印象を受けました。人工知能やロボティクスはある意味手段というか武器であって、やはり最終的には哲学的な問題だと。
【谷口】  そうです、そうです。だから、それがモチベーションなんですね。
ただ、ご存知のようにそんな学会はまず基本的に存在しないわけですよね。だから学会的にはロボット学会、人工知能学会という中で生活していかないといけないし、やっぱり外部資金にしろ周りの研究テーマにしろ、それはどうロボットを使っていくかという話であったり、どうアプリケーションを作るかというはなしだったり、そういうこともあるんですね。そこで「いや、俺はちゃうねん」とかばっかり言ってても前に進まないですし、やっぱりそこはそこで大事なところがあるので、それはシナジーといいますか、共創的にやっていく。共に創るということですね。
【ーー】  そのような大きい問題が背景にあるのだけども、ロボティクスとしてやるなり人工知能の研究としてやるなりすれば、具体的な成果としては実用的な成果が得られるということですね。
【谷口】  そうですね。それはだから僕のある種の保守性と現実主義なところがありまして、やっています。
 あと付言するならば……、だから実は、哲学的であったり、学際的であったり、人文的な話であったりに首を突っ込んでいろいろ書いたりするのも、僕の研究者としての、学者としての一つの方向性というか。それと同時に技術的なことも成果を出してというところで、若干しばしば股裂け的になったりとか、エフォートが2倍かかったりするというところはあるんですけど、それはもう宿命だから仕方ない。
当時、よく自分のことを、「赤魔導士」やと言っていました。知っています? 赤魔道士? ファイナルファンタジーとかのゲームであるんですけど、魔法戦士とか赤魔導士っていうポジションが。魔法も武器も使えるんだけど、その分レベルアップが遅い。なので2倍頑張らないといけないみたいなのがあって、だからもう頑張るしかしゃあないやってことは、昔はよく言っていました。
【ーー】  哲学的な問題を純粋に哲学者としてやると、逆にまったく実用の可能性がないので、それはそれで悩ましいですね。
 とはいえ、構成論的アプローチでなければ最終的にはらちが明かないんじゃないかというのは、哲学者としては非常に重大な挑戦で、ちゃんと考えていかなきゃいけない、応答しなきゃいけない話だと思いますね。
【谷口】  それはそうですね。でも一方で、いわゆる修士時代から博士時代に複雑系の流れから出てきた構成論的アプローチというのに出会いました。そのロボティクスで、要は構成論的アプローチで人間の心の理解みたいな。発達の理解みたいな。その一つに認知発達ロボティクスの流れがあったわけですね。
博士時代から、僕は構成論的アプローチしかやってないんですよね。でも当時、博士のときは実ロボットってあまり使ってなかったんですよ。でも学位を取ってからは実ロボットを使う、記号創発ロボティクスへと移行していった。
 それまでの多くの構成論的アプローチでは、人工生命とかの議論でも、やっぱりこうなって、こうなって、こういうモデルをこうつくったらこういうような現象が出るでしょう、だからこうなんですよみたいなことを語る。語るためにやっていて、それが何に使えるのといったら何にも使えへんみたいなことが多くて。しかもモデルを動かすことで……、モデルといってもやっぱり結果、恣意的につくるわけですよ。だからやっぱりモデルをつくって何か示そうと思ったら、大体その時点では「オチ」が決まってるみたいな、つまり自分の物語を書くためにモデルをつくって動かしているみたいなところがあって、これは俺、「何の意味あんのかな?」みたいな「これってサイエンスの、科学的な文脈においてどういう意味があるんだろうか?」と、「科学哲学的に大丈夫なんだろうか?」と結構悩んだ時期があって、精神不安定状態に陥ったことがありました。だから実は博士が終わったポスドクぐらいのときかな、単身、科学哲学会に発表しに行ったりしたことがあって、スーパーアウェーで何かもうアレでしたけど、でもそれ以降は自分なりに科学哲学的な構成論の位置づけができて、今は精神は安定してるんですけど(笑)。
 その時、科学哲学会で一緒になって、ランチか何か一緒した若手の方がおられて、シミュレーションの科学哲学みたいなのはあるよみたいな話を教えてもらいました。当時、言ってもやはり科学哲学会で進化論の話とか量子力学の話とか、何というか、えっ、いまだにそんな昔のことやっているのみたいな感じがあって、僕が現場として悩んでいる哲学的問題、科学的なこういうアプローチがいいんだろうかというところについては、まだ議論も始まってないところになるのはやっぱり残念だなと思って。
 戦士のたとえで言うならば、人文とか哲学のほうが基本的に魔法使いだと思うんですよね。つまり実験的なエビデンスがなくても演繹的に議論を開始できる、それってすごいアドバンテージで、やっぱり工学の人間とか、理工の人間って基本的に自分で実験できないことは語れないんですよね、あんまり。実験できない系というのはあって、そういう対象に関しては「語りえぬ」ことになって、それはすごく縛りがある。でもその縛りがある種の健全性を生むわけなんですけどね。そういう意味ではあまり先走って探索(エクスプロア)できないんですよね。
例えば、そこを先走って、何というか思想系の人、人文系の人、哲学の人にやっていただければすばらしい。、でも現状、例えばAIの話でも、工学が既にたどり着いている世界観とか、描像とか、これはもう明らかであるというところに、人文の研究者がついていけていないという状況がある。ずいぶんそうでない人も増えてきましたけれども、「人工知能とは」という議論が始まったりするときに、結構頭ごなしにこういうもんでしょうみたいなところから始めたりとか、第2次、第4次ブーム以降の人工知能の話をしているのに、第2次ブームのときにつくられた論点、フレーム問題であったり、そういうようなものから議論を始めてしまうみたいなことがあったりするので、そこはちょっと……、今の話とその時の話はまた違いましたけど、残念だなと思ったりした記憶はあります。僕は人文科学の研究者に助けてほしいのになと思って。
【ーー】  そこは非常に重要な話、特に我々の側、哲学をやっている側にとってはすごく重要な話です。記号創発ロボティクスの本だったと思いますが、例えば、教師なしのカテゴリー化ができるんだということを分かっていない哲学者がそれは原理的に不可能だみたいなことを言う、ということを書かれていました。たしかにああいうことを言ってちゃ駄目なのは間違いなくて。
【谷口】  そうですね。
【ーー】  現実にそういう手法があるということはちゃんと分かった上で、いま問題になることをちゃんと考えないといけないというのは、まったくそのとおりで。そして、今、実際に研究している人が問題にしている悩みを理解するためには、ある程度、というよりもかなり勉強しないと悩みを共有できないということでもあります。
【谷口】  そうです、そうです。たとえば予測符号化(プレディクティブ・コーディング)の本、『予測する心』というのがありますよね?
【ーー】  はい。ホーヴィのやつですね。
【谷口】  そうです、そうです。彼って哲学系ですよね、たしか。
【ーー】  そうですね、はい。
【谷口】  こういう海外の著名な人文系のこういう方とかって、やっぱりかなり分かっておられて書かれているなということがあって。
【ーー】  そうですね。
【谷口】  そういうのはすごいなと思って。僕はやっぱり海外の人文系の方の著作って、かなりシステム論的なというか、描像がはっきりしていて非常にセオリーがあると感じる。だからそういうふうなものはすごくいいなと。
 だから、国内にもそういうタイプの人文科学研究者が増えてほしいし、これは一部のスターだけかもしれないですけども、それがないと多分、日本の人工知能とか、強くなれないなというのは思っていて。何というか工学も含めて特に人工知能ですね、やっぱり心の問題と背中合わせなので。そこに強い人文科学研究者が現れることはむちゃくちゃ期待しているところなんです。
【ーー】  そうですね。谷口先生が交流があるとおっしゃっていた方々は、まさにそのような新しいタイプの研究者だと思うので、期待してよいと思います。
【谷口】  期待します(笑)。だから、短期的には成果が出なくても、ちょっとコミュニケーションを続けていこうという思いがあって。
【ーー】  そうですね。広い意味での認知科学では、いまは計算論的なアプローチをちゃんと理解しないと、問題設定を理解できない。そうするとそれなりの数学的な知識が必要になる。例えば、ベイズ主義などきちんと理解しないと、さきほどの予測符号化(プレディクティブ・コーディング)の話もわからない。ところが、そのくらいまでのことを分かっている人が少ないというのが悩ましいところです。
【谷口】  日本の場合は文理のあれで、進学時点で数学が得意か苦手かで文理選択をしているという確率が、結構高い。
 あと、ある種の学問のダイナミズム的なものもありますけども。
 理工系とかって基本的に実験で実証主義的なところがあるじゃないですか。要は、あるフィロソフィーがあっても、別にパフォーマンスがええやつとか、別にできなかったことをできるようにするやつとか、何かで明らかになるみたいなことがあったら、関係なくひっくり返されるんですよね。
 そういう意味で、学術分野や組織における支配構造の転覆がエビデンスベースとかで起きやすい。実証主義じゃないところでは、何か別のやり口を持ってきて、それから、それは古い! みたいなのがあるんですけど、なかなかやっぱり思想が生まれ出るというのは、完全に否定するとなかなかできないものの世界ですから、どうしてもダイナミズムが起きないがゆえに、何となく、非常にメタですけども、別分野から新しいものを引っ張ってきて、その差分をつくらないと仕事にならないみたいなところが弱いのかなとか思って。
 つまり、大体……、ごめんなさい、勝手に言ってるので、それはちゃうんやったら、ちゃうって言ってくださいね。
理工系とかって大体、相対性理論とかを引くまでもなく、大体別の分野を学んで、こう持ってきて、パラダイムチェンジみたいなことが起きるわけですよね。だから僕らって、要は常に10年前にできなくて今できることが何だろうかと考えるんですよね。
自分がやっていることはそういうふうに、無いこと、もしそれが新しくないんだったら、多分それは30年前、40年前にやられているはずだから、これは新しいテーマだと考えていても、それはもうやられていることで、車輪の再発明なのかもしれない。
 だから、哲学と構成論の話でもそうですけども、多分、哲学の議論を哲学のやり口のままでやったら、それはもう誰かにやられていると思う。構成論的アプローチは少なくとも1980年代とか90年代に出てきたものだから、少なくともプラトンもヘーゲルもフッサールもやっていないはずだから、まあまあ、そことの差分はあるに違いないみたいになるわけです。僕はずっと理工系の畑にいたので、ある意味哲学的な問題と向き合うときでもそういうふうに思うんですが、比較的、どうもお話ししてるとそういうふうなタイプの発想の仕方をされる方が、あんまり哲学分野では、僕の付き合いの範囲だけかもしれないけど少ないなというふうなことを感じましたね。
【ーー】  やはり理系だと、発表でも論文でも、この論文の新しい点は何なのか、新しい貢献は何かということが、つねに問われますね。
【谷口】  そうそう、うん。
【ーー】  それがそこまで明確に求められないということはあるのかもしれません。もちろん、求められているはずなのですが。
【谷口】  何で求められないんですかね。
【ーー】  求められてないわけではないと思うのですが、理系の論文ほどそれを明示化することを求められないところはあります。
【谷口】  それは海外の論文誌に出すときでもそうなんですか。
【ーー】  理系の論文ほどフォーマットが明確化、定型化していないということもあるのかもしれません。
【谷口】  なるほどですね。
【ーー】  それはたしかに興味深いことですし、どう応答すべきなのかというのはつねに考えなきゃいけないことなんだと思います。

その2に続く

その3
その4