三宅陽一郎氏インタビュー(その4)

メタAIの重要性

【――】  初めの方でメタAIの話をされていました。現在の人工知能の限界という話に戻ってしまうかもしれませんが、ゲームではメタAIを組み込むことが非常に重要だということを本でも書かれています。他方で、メタAI自体は人間が組み込んであげて、場合によっては、メタAIが何をするかは人間が設計してあげないといけないわけですね、現状では。
【三宅】  現状ではそうです。
【――】  そういう意味では、一番メタなところは人間がやらざるを得ない。
【三宅】  メタAIが自律型AIになるというのは、究極の姿だと思うんですね。例えば、東京都がスマートシティになって、東京都全体をコントロールするメタAIができたとしたら、それは東京都のこれまでの歴史を学習した上でできてくるだろうと。かつ、それほど巨大な人工知能を人間はプログラムできないので、自律的に状況を把握して、自分で判断して、自分で東京都の安全を守っていくことになる。別にこれは東京都全体だけじゃなくて、例えば、ビル1個の中でもいいと思います。もっと小さい単位だと、家1個の中でもいいと思います。キャラクターAIというのは体があるので、体を起点にして感覚と意思決定と行動があると思いますけど、メタAIというのは「空間に宿るAI」なので、家の全体にセンサーを張り巡らして、家の状況を把握して意思決定する。簡単なところは、人がいなくなった部屋は電気を消すというのも、メタAIはできるわけですね。顔を登録してない人が来たら警報を鳴らしてロボットでつかまえる、そういうのがビルでもあるし、都市でもあるみたいなものです。
【――】  そういう意味では、メタAIはゲームに固有ではなくて、今後もっと一般的に導入されていくものなのですね。
【三宅】  メタAIって、いろいろ話す機会もあるし、ほかの産業から、例えば、車産業とか、最近では特に建築産業から結構引き合いが多くて、スマートシティの中枢としてメタAIを入れたいとか、車の中の空間を統べるものとしてメタAIが要るとか。たとえば、後部座席に乗っている子供さんの様子とかを運転手に知らせてあげたり、運転手の体重とかをモニターしておいたり、あるいは、これまで行った経路を覚えておいて誘導してあげたりみたいな、いろんな用途がありますね。
 ただ、もうちょっと本質的には、人工知能のつくり方の本質的なところがあって、個の人工知能を突き詰めることで、その状況に合った人工知能をつくろうというのは一つのアプローチとしてあるんですけど、これは限界があるんですね。つまり、個としては状況の周りしか見えてないから、それを俯瞰的に監督するAIが必要だよねという発想は昔からありました。例えば、ロボカップサッカーとかはそうでした。1体1体動いている選手としての自律型エージェントもいるんだけど、上から俯瞰的に監督のように、昔、ファシリテータ、調停者AIというのがいましたが、各エージェントにアドバイスをあげたり、あるいは、どっちが上がりますかというときに、上がりたい人にはこっちに報告してもらって最終的には自分が決めますみたいな、調停する役割のAIというのは昔からあるんですね。ただ、残念ながら、事情はよく分からないのですが、実際のロボットのほうではそういう発想がどんどんなくなってきて、個のAIを頑張ればいい、個のAIさえ突き詰めればいいんだ、みたいなところと、ネットワークト・ロボットといって、ネットワークにつないでおけば大丈夫だみたいなところがあって、ファシリテーションするAIがどんどんなくなってきた。ところが、ゲーム産業はむしろメタAI側の比重がどんどん大きくなっていまして、というのも、ゲームのスケールがどんどん大きくなるし、敵の数も大きくなって、昔のファミコンみたいに、プレーヤーは必ずこう来て、こう来るから、ここに敵を置いておけばいいみたいな単純なものではなくて、本当にバーチャル空間で50キロ四方の街をつくっちゃったりして、その中で何でも起こりますよ、みたいのが今のオープンワールド型ゲームなので、そのゲームをうまく機能させるためにメタAIが絶対に必要になってしまっているのですね。そこで、いま、ゲーム産業で鍛えたメタAIが世の中に出ていっている、そんな感じですね。

【――】  ゲームを超えたいろいろなところで使われるようになることで、また一つ、AIのステップアップというか、できることが広がっていく可能性はありますか。
【三宅】  そうですし、逆の言い方もできると思います。ゲームというもの自体が広がっているんだという言い方もできて、つまり、ゲームというのはスクリーンに向かってやるものだけじゃないということですね。「ポケモンGO」もそうですけど、街全体とか都市全体がすでにゲーム空間になっていて、そこにメタAIもキャラクターAIも出ていっているという、そういう捉え方もできるかなあという。
【――】  ただ、メタAIを導入すればすべて解決という話でもないわけでしょうか。
【三宅】  そうなんですけれど、そこにどんどん知見をためていく箱みたいなものですね。つまり、いろいろ試行錯誤して失敗を重ねながら、ロボットの個の人工知能側と上にいる人工知能側に役割を分担して知見をためていく。例えば、何か失敗したときに、監督が悪かったのか、選手が悪かったのか、みたいなのがあるじゃないですか、アメフトとかでも。両方悪いわけですね。ただ、それは選手だけでやれるというので、選手の側だけにどんどん知見を入れていくのではなく、それをうまく分散することで、それぞれちょっとだけ賢くなればその問題が解決できるというのが「分散人工知能」という考え方で、人工知能の連携によって問題を解決しようというのが、マルチエージェントとか分散人工知能という考え方なんですね。メタAIとキャラクターAIの関係はまさに分散人工知能で、お互い立場の違う人工知能を組み合わせることで、掛け算の形で全体のシステムがよくなっていくという、そういう発想ですね。
【――】  人間の場合には、メタ的な役割を果たす監督みたいな人がいることもあれば、それが制度みたいなもののときもあれば、1人の人間が二役やることもあれば、というように、いろいろなタイプがありますね。
【三宅】  まさにそういうことなんですね。ですから、ちょっと言葉は悪いけど、昔の人間というか、例えば、2000年前の民族とかは個を超えた何かがあるんだという。要するに、自然の声が聞こえるとか、そういうシャーマニズムみたいのがあったわけです。あれって、全体を統べるのは個じゃないんだと。個を超えた知性が何かあって、その教えを守らなきゃいけないという感覚を持っていましたよね、昔の人たちというのは。あれは、いわゆるメタAIといいますか、上位の知能によって全体を結びつけるみたいな役割で、現代ではもちろんそんな考え方はしないので、偉い人と部下の人とか、それぞれが個としての知能で、AIも下の個と上の個のAIが連携すると。ですから、知能の一つの、集団が集まったときの知の形としては、メタAIは、むしろ当然の形に行き着いたなというところではありますね。集団を超えた知能の力の具現化です。復活と言ってもいいかもしれない。
【――】  それはこれからいろいろな場面で一般的になっていくだろうと。
【三宅】  そうですね。そのフレームとして、僕自身は博士論文の中でMCS-AI動的モデルというのを提案していて、Meta AI、Character AI、もう1個、空間を監視するSpatial AIの頭文字を取って「MCS-AI動的連携モデル」という形で提案しています。それをゲームにもスマートシティにも応用できますよという、そういう普遍的な理論だとは考えています。

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【――】  最後の質問ですが、人工知能に関する理論的あるいは哲学的な問題を考える上で、とくに重要だと思う文献とか、面白いと思う文献を挙げていただけますでしょうか。
【三宅】  哲学で言えば、デカルトの『方法序説』と、フッサールの『デカルト的省察』(フランスでおこなった講演録に加筆したもの)の2つかなと思いますね。生物学で言うと、環世界という話がありますので、『生物から見た世界』、ユクスキュルが書いた本ですね。ベルクソンについては、『物質と記憶』を人工知能の記憶と身体という視点から読み直すということを行っています。『創造的進化』は知能について、そして人工知能についても、たいへん重要なことを言っていると思うのですが、僕はまだそれを正確につかみきれずにいる。また人工知能の歴史を振り返って新しく筋道を示した『「人工知能」前夜』(杉本舞、青土社)も重要です。井筒俊彦先生の『意味の深みへ』は東西の知能に対する考えを結ぶのに必要な書物です。身体と知能を結ぶ議論はベルンシュタイン『デクステリティ 巧みさとその発達』から再出発する必要があると感じています。G・H・ミードの『社会的自我』も、人工知能の精神的発達という視点から再読する必要があると思います。その補助線として『自閉症スペクトラムの精神病理」(内海健、医学書院、2015年)があるかと思っています。
 あと、映画で言えば、僕はジャン・コクトーというフランスの詩人がすごく好きなんですけど、コクトーの『オルフェ』(1950年)という映画があります。鏡の世界に入って世界の中心にたどり着くという話なんだけど、世界の中心に下りていくと、ただの広場があるだけみたいな、そういう場面があるんですね。逆に言うと、世界は誰が統べているのかというと、ここにある木のささやきが世界を統べているんだよみたいな。つまり、世界の中心に下り立って見えるものは世界そのものでしかない。つまり、真ん中に何かがあると思っているけど、じつは真ん中には何もなかったという、中空構造。つまり、内側に内側に下りていくと外側につながっちゃったみたいな、そういう構造というのが『オルフェ』という映画の中で描かれるんですけど、それって知能の本質に似ているなあと思って。知能というのも、ぎゅーっと突き詰めて、知能の真ん中に何があるんだって行くと、よく見ると、最後まで行っちゃうと、じつは世界が見えているだけみたいな、外に出ちゃったみたいな、「クラインの壺」みたいな構造があって、知能ってじつはそういうふうな構造なんじゃないか。真ん中にすごい装置がばーんとあるわけじゃなくて、結局、知能の真ん中には世界が湧き出しているんだよ、みたいな、そういうのをジャン・コクトーは詩人の幻視の能力で見透かして映画をつくったというところが、結構、自分の哲学的な、ビジョンに影響を受けたというところがありますかね。
【――】  なるほど。最後の『オルフェ』の話は、最初に話されていた、身体を持って環境の中でインタラクションするという話、知能とはそういうものだというイメージにつながる話になっていますね。
【三宅】  そうですね。脳を見ても、身体から集めた情報が脳髄をたどって脳の中に湧き上がっていくみたいな感じですね。それを真ん中の小脳から大脳皮質に向かって解析の根が伸びていくわけですので、結局、世界からの湧き出しによって知能というのが運動しているわけなので、脳の真ん中に行ったら、小脳を通り抜けて脊髄に行って、脊髄から来ているものっていうのは、結局、世界のいろんな情報が我々の体を通して来ているわけなので、知の中心に行ったら何かあると思ったら、世界があるだけだったみたいな、それは確かにそのとおりだなあと思って。そういうふうに人工知能をつくればいいんじゃないですかというのが、『人工知能のための哲学塾 東洋哲学編』で言いたかったことになりますね。それは西洋の、構造の真ん中に、球みたいな形、詰まった球みたいなイメージで知能をつくるのとは全く逆のアプローチじゃないのかなと思っていますね。
【――】  なるほど。これで用意した質問にはすべてお答えいただきました。本日はどうもありがとうございました。
【三宅】  ありがとうございました。

(了)

日時:2021年3月21日、オンライン
聞き手:鈴木貴之

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