三宅陽一郎氏インタビュー(その1)

三宅陽一郎氏は、ゲームAI開発に携わると同時に、『人工知能のための哲学塾』(BNN新社、2016年)をはじめとして、人工知能の哲学に関する書籍を多数出版されています。このインタビューでは、三宅氏がAI開発の中で哲学に関心を持つようになった経緯、哲学に対する期待などについてお話ししていただきました。

ゲームAIと人工知能の哲学

【――】  まず、三宅さんは人工知能の研究開発、とくにゲームAIの研究開発をされていると同時に、人工知能の哲学に関する本を書かれていたり、いろいろなイベントなどもされているわけですが、どのようなお仕事をされてきたのかということと、どのような経緯で哲学的な問題に関心を持たれるようになったかということをご説明ください。
【三宅】  分かりました。もともと、博士課程のときに人工知能を研究しようと思いまして、異なる分野の研究をしている研究室だったのですが、人工知能はこういうものだというアイデアが自分自身にありまして、それを実装するということを学生の頃やっておりました。それは、一つの世界の中で記号的な構成物が自分で自律的に動く。自分で感じて、考えて、行動する。要は自律型人工知能と言いますけど、そういうものをつくっていました。それだけではなくて、物を食べたり、眠ったり、夢を見たりという人工知能を研究していたのが、2002年から2003年ぐらいの話です。そういう研究をしたいと思って、そういうのをやっているのはきっとゲーム産業だろうということで、2004年にゲーム産業に入りました。ただ、入ってみるとじつは、ちゃんとした人工知能というのはゲーム産業の中には当時ないことに気付きました。そこで当初はロボットゲームをもとにフィールドの中を自律的に動く人工知能というのをつくりました。2011年に会社を移りまして、ファンタジーの世界での自律型人工知能をつくっている、というところです。
 自律型人工知能というのは、自律型というだけではなくて、ゲームの場合は、環境とインタラクションする身体を持ちます。実際にキャラクターのために一体一体、体をつくります。三角形のポリゴンというものをつなぐことで外見をつくって、そして、その中にはボーンという骨も入れて、骨を動かすことでキャラクターが体を動かします。つまり、簡単に言うと、ゲームのキャラクターを作るということは、仮想世界の中の人工生命とか人造人間をつくっているようなものなんですね。そうすると、生命って何だろう、知能って何だろう、身体って何だろう、そういう哲学的な問いが自然に発生してくるわけです。開発とか設計をする中で、知能と環境というのはどういうふうに結びついているのだろうとか、認識というのは何だろうとか、行動というのは認識からどうやってつくられるのだろうというような哲学的な問いが、自然にエンジニアの中で必要とされてくるというところがあります。そうすると、月曜日から金曜日はゲームを開発するわけなんですが、土日になると本屋とか図書館に行って哲学の本を集めて、自分なりの人工知能の理論、哲学を含めた理論というのをつくる、ということを繰り返します。つまり、人工知能をつくるために、どうしても哲学という足場が必要なわけです。建築で足場が必要なように、人工知能をつくるためには哲学的な足場というのが必要で、認識というのはこうだからこういうふうにプログラムの設計をしないといけないよ、などというのが随所にありまして、じゃあ心と体の関係というのはどうなっているかというと、心身問題と言われますよね、これはまだ哲学でも解けてない問題ですが、これを探りながら、哲学で分かってないのだったら、取りあえずはこういう設計にしようかなあなどと、哲学とエンジニアリングを行き来しながら人工知能をつくるようになって関心を持ち始めたというところです。

【――】  その中で一つ興味深いのは、ゲーム開発の中で、ゲームの中のバーチャルな世界ではあるけれども、自律型のエージェントをつくるというのが中心的なお仕事だということです。そういう意味では、ビッグデータの分析などをしているような人とは違って、より哲学的な問題関心に出会うことがあったのかなと。ある意味、実際に自律型のロボットをつくっている研究者と同じことを、バーチャルな環境の中ではあるけれども、やられていたという感じになるのでしょうか。
【三宅】  そのとおりです。ですので、実は人工知能の研究者は大体アルゴリズムを研究しますので、全体の人工知能を組み上げるということはなかなかしないし、かつては論文にもしにくかった。特に2004年当時、今みたいに意識を追求するとか、知能全体をつくるみたいな、汎用人工知能みたいな話はほとんどなくて、人工知能といえば何か特定の、ベイズ推論とか、ニューラルネットワークとか、そういう単一のアルゴリズムの性能評価をするみたいなところでしたので、僕の関心は、そことは全く違うところで、人工知能とは誰も言わないようなところだったと思います。特に、デジタルゲームのAI分野というのは、1980年前後、実はその当時、ほとんど認められてなくて、囲碁とか将棋がようやく認められてきたのが2000年前後なんですね。囲碁とか将棋のAIなんか研究してどうなるんだ、みたいな風潮が1980年代当時はありまして、20年かけて偉い先生方がその意義を認めさせてきた。さらに、僕がやっているクリーチャーとかドラゴンの知能とか言っても、そういう分野そのものをやっている人は今でも学術的にはほんとうに少数ですが、20年前は、人工知能分野全体の中では辺境ですね、人工知能の一番外側でやってきたなという感じはあります。最近はようやくそういうのが認められて、デジタルゲームの人工知能でも論文誌にも載るし、特に海外の開発・研究の盛り上がり方というのはすごくありまして、IEEE CoG(IEEE Conference on Games)とか、AAAI(Association for the Advancement of Artificial Intelligence) の分科会のAIIDE(The Artificial Intelligence for Interactive Digital Entertainment Conference)とか、国際学会の中で分科会もあります。ただ、そこでの日本人比率は異様に少ないんですね、いまだに。例えば、今、僕と同じ分野を学術的にやっている方というのは、研究室としては一つか二つぐらいしかないですね。それぐらい特殊というか、僕としては人工知能の中心的な課題だと思っているのですが、学会全体から見ると、日本ではそうではないというところはありますね。
【――】  なるほど。一般の人のイメージからすると、ある課題に特化したアルゴリズムをつくることを、人工知能研究がいまでも中心的にやっているというのは、意外な感じがするのではないかと思います。人工知能研究の中ではむしろそれが本流で、バーチャルな自律型エージェントをつくるというのは、かなりマイナーな領域なのですね。
【三宅】  そうですね。そこは難しいところがありまして、人工知能という学問自体が認められてこなかったという歴史があるんですね。1956年に、ダートマス会議、人工知能をやろうよという会議があって、日本で人工知能学会ができるのは1986年なんですね。それまで人工知能学会さえなかったわけです、日本には。しかも、やるぞと言ってから30年もかかっていますし、人工知能学会が立ち上がったときは第2次ブームでしたが、一方ではむしろ逆風で、人工知能なんて学問じゃないと。つまり、卒論とか修論で、ましてや博論で人工知能をやると言うと、先生に必ず止められるという時代が1980年代だったんですね。とはいえ、東大の本郷にAIUEOという組織がありまして、それは有志が集まって、今、人工知能学会の会長を歴任しているような方々が80年代に10名ぐらい集まって勉強会をしていた、というのが、人工知能学会の前身だったりするんですね。ですから、まずは人工知能というものをきちんと世の中に認めさせなきゃいけないと。いきなり総合的な鉄腕アトムのようなものをつくるぞと言うと、また、SF好きの怪しいやつらだ、みたいになるので、むしろ、人工知能という学問をしっかりと基礎づけるためにもアルゴリズムのほうに行ったというところもあるんですね。それは日本だけじゃなくて、昔はコンピューターも遅かったので、丸ごと1個の人工知能をつくるだけのプロセッシングのパワーもなかったですので、論文でも、最初に哲学的なことを書くというのが1980年代の論文の書き方なんです。例えば、認識というのはこれこれこうで、こういう哲学があってという話をして、ソフトウエアをつくってそれを確かめましたみたいなのがほとんどだった。じつは国際学会の論文でもそのクラスだったんです、人工知能というのは。だから、鉄腕アトムみたいな人工知能エージェントをつくるというのにはかなり遠かった。コンピューターの性能とか、時代的なものですね。そういう風潮を人工知能の主導者の一人であるマーヴィン・ミンスキーは事あるごとに批判していて、そんなものは人工知能じゃないんだと。ちゃんと自律型エージェントをつくらないと人工知能じゃないと、事あるごとに口酸っぱく言っていたんですが、時代がなかなかそこに追いついてこなかったというところがあります。僕は、後からそういう事情が分かったのですけど、人工知能というのは自律型エージェントだという、思い込みといいますか、そういう感覚の下にそこに突っ走ってしまって、それをやるのならバーチャルな世界を持っているゲーム産業だというのでゲーム産業の中に行くと、ゲーム業界でもやっていなかったので、自分で始めるしかなかったというところがあります。2004年当時のことです。
【――】  そこで実際に自律型エージェントをつくろうとしていろいろ疑問が生じたときに、人工知能研究の内部で参照できるものはよい手がかりにならないという感じがあったわけですね。
【三宅】  そうですね。
【――】  より原理的な話にいくしかない、という感じでしょうか。
【三宅】  そうですね。一般の教科書を開いても、第1章、情報探索とか、第2章、三段論法的推論とか、そういうアルゴリズムを見ても、それは知っているんだけど、自律型エージェントをつくるにはそれだけでは足りないなあというので、唯一、『エージェントアプローチ 人工知能』(ラッセル、ノーヴィグ著、共立出版、1997年)という本、1,000ページぐらいある本なんですけど、アメリカの標準的な教科書です、そこに自律型エージェントの章があって、若干ヒントになったけど、それもある意味、機能的な装置をつくろうみたいな、自律型機能装置みたいな感じで、ロボットゲームのように、ミサイルが降ってきたり、地面が割れたり、そういう状況がどんどん変化する中で自律的に目標を達成するというのはなかなかない。いまでも実は少なくて、状況がすごくドラスティックに変化するのは、いまでもゲームの中の人工知能だけなんです。たとえば、ASIMOとか、Pepperとか、ああいうロボットは、お茶をくんでお客さんのところへ持っていくというタスクをするだけでも、ものすごい高度な技術が要るわけですね、実空間だと。ところが、バーチャル空間の世界はある意味うその世界なので、ロボットも、跳んだり、跳ねたり、ミサイルを撃ったり、かわしたりみたいな、いろんな複雑なミッションをこなすので、現実の人工知能よりも圧倒的に難しい問題を先駆けて解かなければいけないというところがあります。ですから、今振り返ってみると、ロボット工学の人たちがつくっている人工知能より随分先を行っていて、今はロボットの人工知能の研究者にゲーム産業から人工知能の技術を渡しているところがあります。
【――】  なるほど。結果的には、ゲーム世界の中での自律型エージェントをつくるというのは、もともとの関心にまさにぴったりの課題だったわけですね。
【三宅】  そうですね。ただ、ゲームは商品なので、本当の人工知能をつくる必要はないんだというのがゲーム産業の立場なんですね。つまり、ゲームの中で一定の役割を果たした上で、ユーザーに賢いと思ってもらえれば、それでいいんだというところですね。だから、ある場面では最初からここで鉄の棒を拾って投げる、倒して盾にして攻撃を防ぐ、というような演出をつけておきます。ゲームのエージェントというのは、半分は役者、半分はバーチャル生物という、そういう難しさもあります。そこが逆に面白いところでもあって、役者と生物の間を行き来しながら、二つの知能を使い分けている、というところもありますね。実情はもう半ひねりぐらいするところで、そこから逆にメタAIという概念がゲーム産業で生まれてきています。それはゲーム全体に宿る人工知能なんですね。プレーヤーが下手だと思ったら敵の数を減らしますし、うまいと思ったらダンジョンをちょっと大きくして、難しくしたり、雨を降らしたり、嵐を降らしたりみたいな、ゲームのユーザーを見ながらゲーム全体を変化させるAIです。メタAIも自律型AIなので、メタAIとキャラクターAI、この2つの自律性を探求してきたというところがありますね。メタAIはゲーム固有の概念なので、今、逆にゲーム産業以外からメタAIを導入したいという要望が来ているという感じであります。
【――】  メタAIの話は、私も三宅さんの本を読んで気になった、興味深い点なので、あとでもうすこし詳しく伺いたいと思っています。
【三宅】  分かりました。

その2に続く)

その2へ
その3へ
その4へ