黒崎政男先生インタビュー(その1)

黒崎政男先生は、カント研究者でありながら、日本で哲学の立場からいち早く人工知能の問題に取り組まれてきた研究者の一人です。このインタビューでは、黒崎先生が人工知能の哲学に取り組むようになった経緯、第2次ブーム期と現在の状況の違いなどについて話をうかがいました。

人工知能の哲学へ

【――】  1980年代から90年代の人工知能ブームのときには、黒崎先生をはじめとする哲学者の方々が積極的に議論に参加されていました。まずは、人工知能の哲学にかかわるようになった経緯をお話ししていただけますでしょうか。
【黒崎】  『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』というフィリップ・K・ディックの小説が「ブレードランナー」っていう映画になったのが1982年です。あれが衝撃的におもしろくて、あのときに、ああ、人工知能やアンドロイドの問題って、じつは人間とは何かということを裏側から問うんだな、そもそも人間って何だという問いを惹起するんだなということを考えていました。それで、ちょうどそのときAIのブーム、大きなプロジェクトが日本であって。
【――】  第5世代コンピューターですね。
【黒崎】  そうですね。そして本屋に行くと、書籍の帯に「これからは、<認識>の問題は哲学から工学に移行する!」って書いてあった。<認識>というのは哲学がずっと考えてきた問題なのに、人工知能という形で工学的にも考えられることができる。こう思ったときに、哲学が人間の知能とか理性とか感覚とかについて考えてきたわけだから、人工知能は近世の哲学と非常に関係があるんじゃないか、というふうに思ったわけです。1985年前後の話です。そしたら、おもしろくてしょうがなかった。そこで「人工知能の哲学」という形で考えていったらおもしろいんじゃないかということでした。
 そのときに『現代思想』が「機械じかけの心」という特集(1987年4月号)を組みました。このときに「哲学の予言と人工知能問題」という論文も書いたのですけれども、同時に、4人の工学者と私が紙上座談会をする羽目になってしまった。
 ちょうどそのころ、ヒューバート・ドレイファスの『コンピュータには何ができないか』(産業図書、1992年)[1979年出版の原著第2版の翻訳。原著の最新版は1992年出版の第3版、What Computers Still Can’t Do]を翻訳していたこともあって、かなりドレイファスからさまざまな論点を学んでいた。なので、私は人工知能問題はまさに哲学そのものだという確信を持っていました。ドレイファスの場合には、現象学を始めとする現代哲学がメインな人なので、近世哲学を乗り越えた、という基本的な構図がある。つまり、ドレイファスによれば、ライプニッツやパスカルやデカルトなどは、人間観としてかなり機械論的というか、論理だけで知能が成立するんだというようなことを考えていたのだけれども、現代哲学のメルロ=ポンティやハイデガー、とくにメルロ=ポンティは、我々がものを認識したり何かするのには、根本的に身体性がかかわっているんじゃないかということを言う。そうすると、身体性や状況とは何かということを考える現代哲学こそ近代の哲学を乗り越えるすばらしい立場だ、というのがドレイファスの基本的な立場です。彼の戦略は、当時の人工知能、今でもそうですけれども、人工知能は、近世哲学と同様の構造を持っていると。だからそれは行き詰まる。身体性や背景知識とかそういう視点がないと、人間の知能もじつはうまくいってないはずだし、人工知能もうまくいかない。そういう戦略で彼はこの反AI論を書いた。ハイデガー学者ですからね、基本的には。
 これを翻訳していたので、いろいろ視点を教わったというか、おもしろくてしょうがなかったわけですよ、翻訳していて。そんなときに、当時の人工知能学者、工学者たち4人と対談というか、討議することになって。1対4になってしまったのですけれども、結果的には。
【――】  対談の相手は、だいたい同世代の方々だったのですか。
【黒崎】  同じですね。だから、いま活躍してる松尾豊さんらの2世代上ぐらい。彼らは、あのころは大変だった。つまり、最初はできるできるって言ってたのだけれども、うまくできないので、何でできないんだって。じゃあ時間とは何かを知らなきゃいけないんじゃないかとか、空間を把握するってどういうことかというようなことを、工学者の彼らは90年代になってから考え始めた。我々だってそんなことは難しいのに、考えるようになった。
 現代思想のこの特集号ですけれども、朝日新聞に論壇時評が載ったんですね。大きな紙面でしたが、話題はこのAI論のこの特集のみ。この本1冊だけを取り上げたもの。経済学者で京大教授の佐和隆光さんですけれども、彼ががーんと取り上げてくれたわけです。私がここに書いたエッセイは、人間の精神が物理的タームに還元できるかどうかっていう話でした。これはホッブズとかライプニッツがそういう立場なのだけど、例えばパスカルは直観の問題が重要だと言っている。そうすると、ちょうど当時AIで話題になっているアンチAIとAI派の戦いっていうのは、まさに近世哲学がずっと戦ってきたその問題そのものだ、それを機械に置きかえてやるものだ、ということを言ったわけです。だから、人工知能というのは決して最近出てきた工学的な問題じゃなくて、じつは長い西洋哲学の議論の一番端にある。そこに乗っかっている問題なんだっていうことを示したかったわけですね。だから、人工知能のブレークスルーとか何とかは、実験をやっているとできるのではなくて、むしろ考え方とか思索とか、そっちから出てくるんじゃないかっということを言ったわけです。で、ちょうど工学者たちと論争をしたら、佐和さんは完全にこっちの味方をしてくれた。「黒崎と4人の座談会を読むと、哲学と諸科学の対話が難しいのがわかる」と。それで、「強気一点張りの工学者、えてして哲学者の言説を馬耳東風、聞き流すかのようである」と。「彼らの水準が一定まで来たとき、初めて、哲学者の言説に耳を傾けるようになるだろう」って、そこまで書いていただきました。これで私も非常に助かったんですけれども。
 実際、当時、人工知能研究はそれほどうまくいかなかったわけですよね。ですから、哲学者側ひとり勝ちということでもないけれども、何でできないかっていえば、それはそもそも人間とは何かがわからないからだよと。人間とは何かということがわかれば、それをシミュレーションして、当時は特にエキスパートシステムの時代でしたから、人間のエキスパートがどういうふうに問題を解いているのか、どうやっているのかということをまねして、それをコンピューターに入れ込めばコンピューターでもエキスパートができるだろうと。そういうことだったんですけれども。じゃあ、エキスパートってどういうことなのか、専門家ってどういうことなのかっていうことを考えてみる。例えば六法全書を全部記憶していることと、六法全書を使って物事を判断することを考えてみる。後者は、違法だとかどのような条項に違反しているとかいう判断、知識の適用を判断するという判断力の問題になる。そして、それは非常に難しいよって、ちょうど『純粋理性批判』でカントが言っている。エキスパートシステムにいくら単なる知識を入れ込んであげても、それをどこでどう使うかっていうところができないところが決定的に難しいんだと。そういうことですよね。
 当時のAI研究は記号主義というか論理主義の側が主流でしたけれども、同時に1950年代からもう一つのいわば脳の神経回路網をシミュレートしてみようという経験論的立場があって、それは、今日のディープラーニングにつながるようなコネクショニズム。これが80年代の後半にすごいはやったんですよね。マカロックとピッツという人が1940年代に考え出した立場が。ほとんどの人は論理主義でしたけど、3分の1ぐらいの人はこのコネクショニズムのほうにかなり傾いていて、それはそれで非常におもしろかったわけです。
 つまり、例えば猫とは何かといったときに、四つ足があって、ひげが生えてて、色がまだらになってて、といった定義の形で猫を定義するという方向と、猫をとにかく見せているうちに、何が猫かわかっちゃうという方向と。コネクショニズムというのは後者で、まあ学習主義といってもいい。それが既にあって。で、コネクショニズムはあまりうまくいかなかったんでポシャり、論理主義もポシャって、ほとんどポシャったというのが90年代の状況だったと思いますね。だから、哲学からみると、うまくいかないのは気の毒だけれど、人間ってどういう形で認知を行っているのか、認識を行っているのかっていうのはそれだけ深い問題だよね、というふうになったんですね、最初。
【――】  その段階では、人工知能だからできなかったという、否定的な教訓だけがあったと。
【黒崎】  哲学には、例えば「考えるとは計算することである」とホッブズが言っていましたが、これを引き継いでライプニッツが普遍記号学みたいなことをつくっていくという記号主義的系列があって、それはそれ自体でもおもしろかった。でも、人工知能という新たな視点が加わり、人工知能の発想がまさにそこから育ってきているという連関が見えたときに、逆に今まで見えていなかった哲学者たちの発想がすごいクリアに見えてくる形になった。この意味では、人工知能に出会って哲学も息を吹き返したとも言える。哲学の意義が表に出たという意味では、哲学内部の話で言えば実存主義をやってみたり、構造主義をやってみたり、ポスト構造主義をやってみたりして何とか存在をつないできた哲学が、最後に人工知能というものに出会って、そこに意味を見出したというところもありますよね。
【――】  ご著書でもしばしば書かれていますが、人工知能をある種の参照点にすることで、伝統的な哲学の問題意識や対立図式が…
【黒崎】  浮かび上がってきました。甘利俊一先生が、まさに今のディープラーニングや機械学習につながる、『神経回路網モデルとコネクショニズム』(東京大学出版会、1989年)という本をお出しになりましたが、その本に、「哲学におけるコネクショニズム」という文章を補稿という形で書かせていただきました。そこで、じゃあ哲学におけるコネクショニズムって何だっていうと、カント主義対ヒューム主義の対立において、ヒュームの観念連合のような立場はコネクショニズムの根本だなと。ロック、ヒュームらの経験論で、とにかく観念を経験から学んで、それを観念連合してというような考え方。これがこのコネクショニズムの側だとすると、それまでやってきた論理主義みたいなのは大陸合理論的な形だなというふうに見える。ちょっと図式は古いですけれども、大陸合理論対イギリス経験論みたいな対立がまさに人工知能の中で起きていると。そうすると、哲学の中でそれを解決したのはカントじゃないかと。(笑)じゃあ、人工知能も最終的にはカント的アーキテクチャーによって完成するのではないかというような、そういう考えを好きに書かせてもらった。楽しかったですね。

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