徳認識論/知的徳

徳認識論(virtue epistemology)とは、近年盛んに研究が進んでいる認識論の一分野である。徳認識論を特徴づけているのは、認識論的な研究の焦点を主体(agent)のもつ性質である知的徳(intellectual virtue)ないし認識的徳(epistemic virtue)に当てるという点だ。徳認識論においても従来の認識論と同じく主体の信念(belief)は依然として重要な位置にあるものの、そこでの信念が認識的に重要な身分をもつ――たとえばその信念が単なる信念ではなく「知識(knowledge)」と尊称されるに値する――ときに焦点が当てられるのが、信念形成(belief-forming)の主体が知的に有徳である(intellectually virtuous)という点なのだ。知的徳の代表的な例として直観的に理解しやすいのは、開かれた心をもっていること(open-mindedness)、好奇心(curiosity)、知的な謙虚さ(intellectual humility)、認識的な勇気/勇敢さ(epistemic courage)、忍耐力(perseverance)などだろう。こうした知的徳を備えていることは、我々を卓越した認識主体たらしめてくれるのである。

まずは徳認識論の歴史的な背景から手短に説明しておきたい。徳認識論の前駆型は、古代ギリシアのプラトンやアリストテレスにまでさかのぼって見出されるといわれる。また、トマス・アクィナスやデカルト、キルケゴールやニーチェやパース、あるいは、イスラム哲学者たちなど、歴史上のさまざまな哲学者にも、徳認識論的な発想を発見することができるとの主張もなされている。

現代においては、20世紀の中葉以降、とりわけ英国のアンスコムらの仕事によって徳への注目が高まってきたが、それは主として道徳的・倫理的な徳(moral/ethical virtue)に関する議論であった。だが、そうして再興した徳倫理学(virtue ethics)の文脈においてではなく、認識論的な関心から知的徳をめぐる議論が始まったのは、1980年代以降という最近のことである。そのせいもあって、徳認識論の研究者の間でも、主体のもつ性質のどこまでを知的徳の範疇に含めてよいのかとか、厳密にいって知的徳はどう定義できるのか、したがってそもそも徳認識論とはどんな研究領域なのか、といった基本的な点についてさえ十分な合意があるとはいいがたく、状況はやや錯綜している。さらに、著しい成長をいままさに遂げつつある分野の常として、徳認識論に含まれるトピックは急速な深化と多様化ないし拡散を見せつつあり、その全貌を捉えることは非常に困難といわざるをえない。そこで以下ではごく控えめに、現在活況を呈している徳認識論について、その統一的な姿を描き出すのではなく、大雑把な感触をつかみ、そのうえで今後の課題のいくつかを示すにとどめるだけしたい。

知識とは何か――認識論はこの問いに答えることをプラトン以来の伝統的課題のひとつとしてきたが、徳認識論では、知的徳を発揮することを通じて形成された真なる信念が知識である、としてこれに応じる。たとえば、頑なに自分の信念に拘泥するのではなく、他者の異見にも耳を傾ける開かれた心をもっており(知的徳の一種)、まさにそれを発揮することで、当初の誤った信念を取り除いて正しい信念に置き換えることができたなら、そうして形成された真なる信念は「知識」と呼ぶに値する、というわけだ。こうした知識の分析や定義、定式化は、先にも述べたように、認識論では古代からの伝統的課題であり、20世紀においてもゲティア問題(Gettier problem)への応答という形で盛んに論じられてきたものだが、徳認識論では、知的徳という概念を用いることで、ひとつの解答を提出しようと試みているのである。ここには、徳認識論が最近になって盛り上がりを見せる分野でありながらも、あくまでも認識論の伝統に連なり、古典的な問題にも取り組む姿を見てとることができる。知識の分析以外に徳認識論からのアプローチが試みられている古典的な認識論的問題として、内在主義と外在主義の対立、懐疑論、基礎づけ主義と整合性主義の相克といった問題が挙げられる。

知的徳の捉え方に関して徳認識論は大きくふたつに分けられるといわれる。「信頼性主義 reliabilism」と「責任主義 responsibilism」と呼ばれる立場がそのふたつであり、この区別の存在が徳倫理学とは異なる仕方で徳認識論を特徴づけているとする見方もある。もっとも、両者は相互排除的ではなく、むしろ補完的な関係にある――あるいは両者は判然とした境界をもたない――という見方が一般的になりつつあるようだ。ともあれ、それぞれの大枠を順に見ていくことにしたい。

信頼性主義は、ソウザ(Ernest Sosa)やグレコ(John Greco)、ゴールドマン(Alvin Goldman)といった哲学者に代表される。彼らが知的徳の典型例として引き合いに出すのは、卓越した認知能力――具体的には、記憶、視覚、聴覚、内観など――である。ここでいう認知能力の卓越性とは、おおよそ、その能力が真なる信念を形成する割合の高さとして捉えられる。そうした割合が高いことをもって、その認知能力にもとづく信念形成プロセスが信頼のおけるものである(reliable)とされる。いうまでもなく、信頼性主義という言葉の意味はこの点に存する。信頼のおける優れた視覚を有するという意味で知的徳を備えた人が、まさにその視覚のおかげで眼前の光景に関する真なる信念を形成することができたなら、その信念は知識の名に値する、という具合に発想するのが、信頼性主義的な徳認識論だ。先に冒頭で挙げた、開かれた心をもっていることや知的な謙虚さなどは、あくまでもそれが信頼のおける信念形成プロセスを支えるか否かで、知的徳としてカウントされることになる。

これに対して、ザグゼブスキ(Linda Zagzebski)やモンマーケット(James Montmarquet)、ベアー(Jason Baehr)らの主導する責任主義では、知的徳を称賛に値するような優れた性格特性(character traits)――知的な謙虚さや認識的な勇敢さなど――に限定する方向をとる。こうした性格特性は、真理をはじめとする認識的に価値あるものに向かう主体の動機づけや行為などを要請する。そしてそれらは個人としての認識主体によってある程度はコントロールすることが可能であるために、その主体が部分的に責任を負わねばならない(responsible)ものとして位置づけられる。ここでいうコントロールの可能性は、典型的には時間をかけて獲得したり学習したりすることを含む概念であり、それゆえにこそ知的徳はそれを備えるに至った主体を称賛の対象とするわけである。

信頼性主義が、記憶や視覚や聴覚などいわば機械的に働く認知能力を知的徳の典型例とする点で、認識主体に見られる非自発的・非能動的な性質を中心的に扱う立場であるのに対し、責任主義は、個人が自発的・能動的にその知的に優れた性格特性を涵養する場面、およびそうした知的徳を行使して知識を生み出す場面に定位した認識論的スタンスともいえるだろう。なお、知的徳としての性格特性が信頼性を必要とするものであるかどうかについては、責任主義者の間でも見解が異なる。

さて、知的徳を中心概念とする点において徳認識論は、とりわけ責任主義に顕著な傾向として、価値にまつわる問題と深く結びつくという際立った特徴が見られる。たとえば、なぜ単なる真なる信念ではなく知識をもつことが望ましいことなのかと問われれば――この種の問いは「価値問題(value problem)」と呼ばれる――それは人間の善き生には知的徳の発揮を通じた真理の達成がひとつの側面として含まれているからにほかならない、と答えられるという具合である。このように、信念を中心としてきた従来型の認識論とは異なり、価値や人間の善き生をめぐる考察に踏み出し、倫理に接近していくところに、徳認識論をひときわ興味深くしている点が見てとれるように思われる。

最後に、徳認識論の今後の問題や課題、論点をいくつか述べておこう。

1. 従来型の認識論における問題:先に挙げた知識の分析や懐疑論の問題などに対して、知的徳という概念にもとづく徳認識論がどのくらい有効にアプローチできているかについては論争が続いている。現在の議論状況を整理し、慎重に検討を加えながら、今後の方向を見きわめる必要がある。
2. 状況主義(situationism)との関わり:徳倫理学においては、頑強な行動傾向としての性格特性という倫理的徳の存在そのものに、社会心理学などの経験的知見を援用した批判が提出されており、大きな議論を巻き起こしている(状況主義論争)。この論争についての詳細は他に譲るが、知的徳という概念を理論的支柱とする徳認識論に対しても、同種の批判が突きつけられ始めている。
3. 知的徳の区別および共同体・環境への着目:倫理的徳に関しては、しばしば自己志向的/他者志向的の区別が立てられる。慎重さは自己志向的な徳の一例であり、慈悲や同情などは他者志向的な徳である。知的徳についても、知覚の正確さや知的勇気は自己志向的で、正直さなどは他者志向的である、といった具合に同様の区別を立てることができるだろう。この区別が重要なひとつの理由は、他者志向的な知的徳が、われわれ人間が共同体に属して生きていることに関わっているという点である。ここからは、共同体における認識的な正義/不正の問題というこれまでにない議論領域――これもまた近年の認識論の一展開である――が拓かれ、それとともに、知的徳がいかなる仕方で社会的状況に埋め込まれ、共同体内の足場に支えられ、そして環境に拡張している(しうる)のかという、新たな問いが導かれるのである。
4. 有徳な認識主体の範囲:知的徳が個人のうちに閉じていないとすれば、有徳な認識主体の範囲も個人に限定する必要はない。集団・共同体といった単位や人間と――もしかするとAIを含む――人工物とが複合して形づくるシステムでさえも、有徳な主体となりうるかもしれない。

――以上のように徳認識論は、既存の問題に対する興味深いアプローチを提示するにとどまらず、それ固有の問題や応用的課題にも取り組みを拡大しつつあり、今後の発展が期待される魅力的な分野だといえるだろう。

文献
Baehr, J. (2011). The Inquiring Mind: On Intellectual Virtues and Virtue Epistemology. Oxford University Press.
Battaly, H. ed. (2019). Routldge Handbook of Virtue Epistemology, Routldge.
Turri, J., Alfano, M. and Greco, J. (2017). Virtue epistemology. In E. Zalta (ed.), Stanford Encyclopedia of Philosophy.
飯塚理恵「倫理的徳と認識的徳」、信原幸弘編『ワードマップ心の哲学――新時代の心の科学をめぐる哲学の問い』、新曜社、二〇一七年、所収

執筆者:植原亮
第1版作成日:2019年4月30日