柴田正良先生インタビュー(その1)

柴田正良先生は、心の哲学がご専門で、いわゆる心身問題やそれに関連する諸問題に取り組まれてきました。『ロボットの哲学』(講談社現代新書、2001年)において、人工知能や認知科学に関連するさまざまな哲学的な問題を論じられています。近年では、みずからが代表を務める科学研究費補助金の研究プロジェクトで、ロボット工学者などとの学際的な共同研究も進められています。このインタビューでは、いわゆる分析哲学の側から見た人工知能の哲学の諸問題について話をうかがいました。

心の哲学・認知科学の哲学・人工知能の哲学

【――】 まず、人工知能の哲学にかかわるようになった経緯と、この分野での主なお仕事について簡単にご説明ください。
【柴田】 最初のきっかけは、美濃さんと私と柏端さんと3人でやった北大でのワークショップだったと思うんですよ。心的因果性の問題につながるような話。その一つの支流として人工知能、AIの哲学というのがあったんじゃないかなと思います。
 私の立場、一つは非還元的な物理主義、心的性質と物理的性質は全く同一ではないだろうという立場と、それから心的性質は多重実現されうるのではないかという考え方。その2つの考え方からすると、当然、人間が持っているような心的性質は、機械でも実現されるんじゃないかと。そこからごく自然に、AIやロボットで人間の心的な機能を実現できる、あるいはどうやったらそれができるのかという話になったのだと思います。
【――】 そのころは、いわゆる「心の哲学」の心身問題に取り組みつつ、認知科学や人工知能関連の話も同時並行的にされていたのですね。
【柴田】 そうですね。われわれの世代がやっていたころは、基本的に心身問題でのオントロジカルな問題設定があったと思うんですよね。心のような性質がどのように物理的世界の中に出現して維持されているのかという話。それで、オントロジカルには多重実現できますという話になったときに、その立場は基本的に機能主義だと思うんですけど、そのときに、では具体的にどういうふうにAIやロボットが人間の心的性質を実現できるのかという、もう少し踏み込んだ議論があったと思うんですよね。
 そのときに一つの有力な方向性を出していたのが、ジェリー・フォーダーだった。「思考の言語」をわれわれ人間が実際に使っていて、それは多重実現されうるのだから、機械もできると。でも、人間は、それほどきれいな論理計算のようなことはやっていないし、得意じゃない。むしろ論理計算ではない部分に、人間の知能、能力の特性が生かされているのではないか。それを言い出してきたのがコネクショニズム。実は思考の言語のようなものはないんだと、チャーチランドたちが言っていた。その2つの論争から具体的な話に入っていった部分が多かったかなと思いますね。
【――】 その辺はどちらが先で、どちらが後というよりは、同時並行的に進んでいたのですか?
【柴田】 そう。基本的に、われわれの世代の哲学屋というのは、哲学的な議論は教え込まれるんだけど、認知科学の前線に立っているところでの技術的な問題というものをあまりよく知らない。そういう意味で言うと、具体的な認知科学の中の問題にタッチしないままでというか、できないで議論をやろうとすると、結局、オントロジカルな方がベースになっていく。
 そのときに、フォーダーが偉かったなと思うのは、基本的に、哲学屋の立場でいろんなことを言っていますけども、認知科学をやろうとする人が考えなくちゃいけない仮説として、思考の言語仮説を出したところだと思うんですよね。あれは経験的な仮説なので、反駁も可能だし、普通の意味で検証も可能でしょう。
 そういうものは、今までの日本の哲学者は一度も出したことがないし、今でもなかなか出せない。私が強く引かれた部分はそこだった。つまり、具体的にもう少し科学とか、周辺の領域と接触を強めなくてはダメなんじゃないか。
【――】 そういう意味では、『コネクショニズムと心の哲学』は、実際にニューラルネットワークの研究をしている方も巻き込んでやっているという意味で、日本の研究チームでそういう方向に踏み込んでいますね。
【柴田】 行こうかなという風にはしたけれど、実際にはなかなか行けない。何人かの例外を除くと、やはりそういう素養がない。だから、ほんとうに哲学をやる連中は、もう哲学史はやらなくていい。(笑)
【――】 数学などがある程度できないと、ああいう話はちゃんと理解できないですね。
【柴田】 できない。統計とか数学の基礎をやってないと、本当にはわからない。
【――】 若い人は、ほかの科学とか数学の勉強もしなさいと。
【柴田】 そうです。いいかげんにお茶を濁していたらダメ。
【――】 人工知能絡みの話だと、いまはさらにもっと複雑な話になっていますね。ディープラーニングは普通のニューラルネットワークとどう違うのかといったことをちゃんと理解しようとすると、同じようなことが問題になります。
【柴田】 そういう意味で言うと、哲学者がどのレベルで何を言ったらいいんだろうという問題は、いまだにつきまとっていると思うんですよ。個別科学の中で、本当に個別科学それ自身に入り込んだ仮説を出すとすると、それはもはや個別科学者になっている。それをやれる人はいいけれども、それは哲学者がやるべきものでもないだろうと思います。そうすると、個別科学に対して関わろうとするときに、どのレベルで、どこの深さまで、それから、どれぐらい理解して何を言うのか。そういうスタンスはやっぱりこれからも必要なのかなと思いますね。
 それを考えると、やはり哲学が個別科学に関与できるのは、その科学が開花し始める部分なのではないか。開花しちゃったら、クーンが言うパズル解きになってしまう。開花し始めるところでは、オントロジカルな問題というか、ほかの科学とどう連携するのかとか、ほかの科学にどうインパクトを与えて、何を変えていくのかという、そういう問題が出てくると思うんですよね。
 哲学屋は、そのときに、そういう全体の見通しをもう一回きちんと描き直すことができて、それから、それを従来の人間の本来的な問題につなげることができるんじゃないかという感じがします。
【――】 そういう意味では、人工知能なら人工知能、生物学だったら生物学など、対象とする分野をある程度はちゃんと勉強しなければいけないけれども、生物学者になってしまうというのはちょっと違うわけですね。やはり適度な距離の置き方があるはずだと?
【柴田】 あるはずだと思います。そのときの距離の取り方は非常に難しい感じはしますが、私は人工知能とロボットに関しては、今後はやはり倫理的、道徳的な問題が残るというか、それに収斂していくのではないかと思っています。科学と、特にテクノロジーは、際限もなく自分自身を増殖させていくもので、それ自身のロジックで自分に限界はつくらないと思うんですよね。その限界を哲学屋がどこかでつくるという必要もないけれども、でも、限界がないとすると、それは人間の存在というか、人間の生き方に何をもたらすことになるのか。あるいは、どこかで限界をつくることが必要であるとすると、その視点は一体何なのか。そこはやはり哲学屋、哲学をやる人が考えなくちゃいけないんじゃないか。
 そういう意味で言うと、たぶん、哲学者は、科学者が考えたくないこと、誰かが考えてくれるだろうと考えているようなことを考えなくちゃいけないと思うんですよね。

認知科学は可能か?

【――】 『コネクショニズムと心の哲学』で論じられている表象をめぐる論争についてもう少しうかがいたいのですが。
【柴田】 あれも最終的に決着はついていないような感じもするんです。
【――】 その後、あまりはやらなくなってしまいましたね。
【柴田】 うん。はやらなくなった。われわれの理解では、生物的なものに関して言えば、表象を操作することはやってないんじゃないかという感じが大分あって・・・。ちょうどフォーダーが言っていたかな。もしもコネクショニズムが正しければ、認知科学者の大部分は失業すると。認知科学というのは、要するに、表象がどのように処理されているかということについての研究であると。その表象というのは、理論的な存在者であって、それは認知科学という科学が解明する法則に従う存在なんだと。それを計算したり、操作したりしているのが認知であると。ところが、いきなりその部分がなくなったら、ニューロンについてのいろんな生物的な記述があって、それから、生物学的な法則があって、そうして、何だか知らないけど、やりとりがあって、アウトプットが出現するというふうになると。
 そうすると、認知科学を独立した一つの科学とする必要はなくて、脳細胞についての生物学的計算モデルみたいなのはつくれるけれども、それは表象を操作しているわけでも何でもなくて、因果的にのみ記述できることになる。
【――】 思考の言語仮説が成り立たないとしたら、どのようなボキャブラリーを使って認知を記述できるのでしょう。ほんとうにコネクショニズムみたいなやり方しかないのでしょうか。
【柴田】 例えばフォーダーが考えたような認知科学というのは、ある程度表象依存的というか、表象を措定するから表象についての科学と法則があるみたいなことなんだけど、それがちょっと無理だったよねという話になったときに、やっぱり生物学に還元されるのか、あるいは、相対的に独立して、一つの法則科学としての認知科学があるという風に考えるのか。
【――】 ある程度抽象的なレベルはあり得そうですが。
【柴田】 中間のレベルがあるとすると、一つの個別科学としての認知の科学というのをつくれる気がするんですよね。つまり、仮にフォーダーの直観が正しいとすると、人間以外にも認知現象というのは多分ありうる。ロボットにもあるかもしれないし、エイリアンにもあるかもしれない。抽象度を上げた理論があるとすると、そういう認知行為者というか、認知を行っているような存在者全体に対しての一般法則があることになる。ちょうど、物理学がそれよりさらに一般的で、どんな存在者にも物理現象として適用されるのと同じように。そういう一般理論をつくれるとすると、それを宣言できるのは哲学者かもしれない。(笑)
【――】 認知科学に関しては、おそらくこのような状況が1960年代ぐらいからずっとあるわけですが、依然として黎明期が続いているという感じでしょうか?
【柴田】 そうですね。
【――】 紆余曲折は経ているが、まだ完全にパラダイムが出来上がっていないと。
【柴田】 うん。ないかな。例えば生物学ってどこから出てきたの、いつから始まったんだろうというのはよくわからないけど、例えばアリストテレスが最初にいろんな生物現象を論じた。最初はやっぱり哲学だった。それから、ニュートンも実は哲学者だった。ちょうどタマネギの皮むきみたいに、むいていって、個別科学になるものは少しずつ落ちていって、それぞれパズル解きになっていく。で、言語学が最近ようやくそうなったかもしれない。認知科学は、そういう意味で言うと、もう少し時間がかかるのかなという感じはするんですね。
【――】 古典的な計算主義の段階で、それができたかのように思えていたけど、じつはそれほどしっかりまだできてなかったと。
【柴田】 そうそう。最近、AI、AIとよく言うじゃないですか。AIが人の職場を奪うとか何とか。でも、それは基本的に非常に早い計算能力と、それをいかにしてうまくコントロールして、ある領域に適用させるかということなので、ちょっとした応用の域を出てない。それが産業の一部に入り込んだことによるインパクトの方が大きくて、認知科学的に見たときには、それほど大した前進やすごいことが起きているわけではないんじゃないか、という感じがするんですよね。

その2に続く