ヒューバート・ドレイファス『コンピュータには何ができないか』

ヒューバート・ドレイファス『コンピュータには何ができないか−哲学的人工知能批判』黒崎政男・村若修訳、産業図書、1992年

 本書は、人工知能に関する哲学書として、そして、人工知能研究の限界を主張する書籍として、もっとも有名なものの一つである。
 著者のヒューバート・ドレイファス(1927年−2017年)は米国の哲学者で、カリフォルニア大学バークリー校で長年教鞭をとっていた。ドレイファスの専門はハイデガーを中心とする現象学で、彼の人工知能批判は、ハイデガーやメルロ=ポンティといった20世紀の現象学者の哲学を背景としている。
 ドレイファスは、1965年に著したランド研究所の報告書「錬金術と人工知能」において、すでに人工知能研究に対する疑念を表明していた。本書は、その延長線上で、人工知能研究の理論的基礎に、より包括的かつ徹底的な批判を試みたものである。
 本書の第1版は1972年に出版された。1979年には、70年代の研究動向をふまえた長文の序文が追加された第2版が出版され、1992年には、さらに新たな序文が追加された第3版What Computers Still Can’t Doが出版されている。邦訳は第2版の翻訳で、以下での引用はこの邦訳によるものである。

人工知能研究の歴史

 本書の第一部では、人工知能研究の歴史が振り返られ、そこでは同じパターンが繰り返されてきたことが確認される。(初版第一部では1957年から1967年までの約10年間が振り返られ、第2版の序文では、1967年から1977年までの研究動向が検討されている。)
 ドレイファスは、1950年代中期からの20年間を4期に分け、それぞれの時期における人工知能研究を、中心的な課題によって特徴づけている。それぞれの課題とは、認知のシミュレーション、意味情報処理、小世界の操作、知識表現である。いずれの時期においても、「単純な課題の手際のよい遂行、ないしは複雑な課題の稚拙な実行に基づくような初期の劇的な成功と、それに続く成果の逓減、幻滅、そしてある場合には悲観論というパタン」(p.175)が見られるとドレイファスは指摘する。研究の初期における比較的単純な課題においては大きな成功を収めるが、より複雑な課題に進むと、研究は急速に停滞してしまうというのである。このような経緯をふまえて、ドレイファスは、人工知能研究は「(月に辿り着こうとして、木に登る男の場合のように)、一層の努力ではなく全く異なった技術を要するような、非連続体に直面しているのかもしれない」(p.177)と述べる。単純な課題を解決するための戦略は、より複雑な課題を解決するための戦略として、根本的に不適切であるかもしれないというのである。では、その戦略とは何であり、それはなぜ不適切なのだろうか。
 ドレイファスは、4つの時期のいずれにおいても、初期の成功をもたらした課題と、その後の停滞をもたらした課題には、いくつかの重要な違いがあると指摘する。前者の特徴は以下のようなものである。

・選択肢などのしらみつぶしの数え上げが可能である。
・文脈依存性や曖昧さが存在しない。
・本質的な要素と非本質的な要素を区別する必要がない。
・抽象的なパターンの認識が必要ない。

これに対して、後者の特徴は以下のようなものである。

・選択肢などのしらみつぶしの数え上げが困難である。
・文脈依存性や曖昧さが存在する。
・本質的な要素と非本質的な要素を区別する必要がある。
・抽象的なパターンの認識が必要である。

たとえばチェスと企業経営を比較すればわかるように、後者は人間が現実に行っている多くの知的活動の特徴にほかならない。ドレイファスによれば、これまでの人工知能研究は、これらの特徴をもたない領域で成功を収めたのち、これらの特徴をもつ領域に同じ方法論を持ち込んだ結果、失敗を繰り返してきたのである。

人工知能研究の間違った前提

 第二部では、これまでの人工知能研究がどのような理論的前提にもとづくものであるかが、くわしく検討されている。ドレイファスによれば、これまでの研究には以下の4つの理論的前提があるが、いずれも誤りなのである。

生物学的前提:「ある操作のレベルでは…脳の情報処理は、スイッチのオン/オフ状態に相当する生物学的状態を通して行われる離散的操作である。」(p.275)
心理学的前提:「心は形式的規則に従って単位情報(ビット)を操作する装置と見なすことができる。」(p.275)
認識論的前提「すべての知識は形式化できる」(p.275)
存在論的前提:「存在するものは、互いに論理的に独立した事実の集合である。」(p.276)

 4つの前提のうち、とくに重要なのは認識論的前提と存在論的前提である。これらの前提に対するドレイファスの批判は錯綜したものなので、ここではその概要を紹介しておこう。
 ドレイファスによれば、人工知能研究者は、「任意でない振舞いはすべて何らかの規則に従って形式化でき、それらの規則はどのようなものであれ、コンピュータによって振舞いを再生するために用いることができる」(p.329)と考えている。われわれの知的活動は、論理学における証明や物理学における物体の運動の予測と本質的に同様の営みであり、それは、世界がどのようであるかに関する知識を形成し、そこにさまざまな規則を適用することによって成り立っているというのである。このような見方が成り立つためには、世界に関する知識と、知識と行動を結びつける規則は、いずれも曖昧さのないものでなければならない。「知的振舞いにとって本質的なことはすべて、原理的には確定的で独立した要素の集合に基づいて理解可能である」(p.357)というのが、人工知能研究者の根本的な前提なのである。
 しかし、ドレイファスによれば、この前提は誤りである。彼は、「人間の知識は、ミンスキーが信じたがっているように、明示的記述として分析できるとは思われない」(p.363)と主張する。彼によれば、「一般に、われわれは人間の状況について暗黙の理解をもっている。その状況は、われわれが特定の事実に直面し、それらを明示化する際の文脈を与えてくれるものである」(p.364)。つまり、企業経営者が経営上の決定を下すときには、物理学者が物体の運動を予測する場合のように、純粋に客観的な事実に厳密な法則を適用するのではなく、みずからの関心や状況を反映した「事実」にさまざまな例外の余地を残す柔軟な「規則」を適用しているのである。
 ドレイファスによれば、われわれの知的活動を明確で形式的な手続きの集合として理解することは、根本的に不適切なのである。

新たな知性観

 第三部では、おもに現象学に依拠しつつ、人工知能研究が暗黙の前提とする知性観に代わる見方を提示することが試みられている。ここではその中心的な主張を確認しておこう。
 第一に、ドレイファスは身体の重要性を指摘する。「メルロ=ポンティのような実存主義的現象学者は、人間の複雑なパタン認識の能力を、動的で有機的に結合し合った人間の身体に関係づける。この身体は、それ自体の機能と目標についてのある継続的な感覚によって環境に反応するよう設定されているのである」(p.428)と彼は論じる。第一部で論じたような文脈依存性や曖昧さへの対応を可能にするのは、身体だというのである。彼によれば、「パタン認識がすべての知的振舞いの基礎となる身体的技能であることがわかった以上、人工知能が可能かどうかという問いは、身体をもった人工的行為者が可能かどうかという問いにまで収斂する」(p.428)のである。
 第二に、ドレイファスによれば、「人間の世界は人間の目的と関心によって予め構造化されており、対象と見なされるもの、あるいは対象に関して有意義なものは、すでにその関心の関数であるか、あるいはその関心を具現化したものなのである」(p.446)。「事実に意味を与え、事実を事実とするような人間の欲求と傾向によって、状況はそもそも初めから組織化されているのであり、その結果、分離した無意味なデータの膨大なリストを記憶したり検索したりするなどという問題は決して生じない」(p.448)のである。
 第三部の最終章で、ドレイファスは人間の知的活動を4つの領域に分類している。彼によれば、「最初の二種類はデジタル・コンピュータに馴染みやすいが、第三の類型は部分的にしかプログラムできず、第四の類型に至っては全く手に負えない」(p.497)。人工知能研究者は、このような違いを見落としていたのである。ドレイファスによれば、「「あらゆる知的振舞いは同じ一般類型に属する」という前提が、研究者たちが有望な二区域[=形式的な問題領域]の成功を残りの二区域[=非形式的な問題領域]の成功に対するはかない期待に結びつけるのを助長したのである」(p.501)。

現在の意義

 ドレイファスの議論は大胆かつ根本的なものであるため、その重要性は現在も失われていないように思われる。最後に、彼の議論をふまえてわれわれが今日検討すべき問題を二つ挙げておこう。
 第一に、本書におけるドレイファスの議論、とくに第二部における諸前提の批判や第三部における新たな知性観には、十分に明らかとは言えない点も多くある。たとえば、ドレイファスは、人間は状況に関する暗黙の了解を有しており、それによって事実の把握が可能となると主張する。では、状況に関する暗黙の了解とは、具体的にどのようなものなのだろうか。とくに、それが無意識的な知識のようなものでないとしたら、何なのだろうか。ドレイファスの議論においては、文脈、状況、身体などが密接な関係をもつことが示唆され、それら一連の要因をもつかどうかが人工知能と人間の決定的な違いであるとされている。これらの関係を明確化することは、人工知能の限界について考えるうえで重要な作業である。
 第二に、その後の人工知能研究の進展をどう評価すべきかということも問題となる。ドレイファスが本書で批判の対象としているのは、いわゆる古典的な人工知能研究 (Good Old Fashioned Artificial Intelligence, GOFAI) である。しかし、その後の人工知能研究は、ニューラルネットワークを中心としたものとなっている。じつは、ドレイファスは、1992年の第3版序文においてニューラルネットワークについても言及している。彼は、みずからのおもな批判対象が古典的人工知能研究であるとし、その失敗は明らかだと指摘しつつ、ニューラルネットはより見込みのあるアプローチであり、彼の立場とも整合的であると主張する。しかし他方で、「いまのところ脳についてよくわかっていないことと、コンピュータのメモリサイズには実際的な制約があることを考えれば、この種の脳にヒントを得たAIに近い将来実質的な進展が見られることは、まずありえないと考えることももっともだろう」 (pp.xliv-xlv) と述べ、ニューラルネットワークによって汎用人工知能を実現する可能性については、依然として懐疑的な立場をとっている。深層学習ニューラルネットによって、あるいはロボットに人工知能を組み込むことによって、ドレイファスの指摘する困難がどこまで克服できるのかということもまた、われわれがあらためて考えなければならない問題だろう。

執筆者:鈴木貴之
第1版作成日:2019年5月25日