プロジェクトの概要

過去10年ほどのあいだに、人工知能研究は大きな発展を遂げました。自律型ロボットの開発やビッグ・データの分析など、関連する情報テクノロジーも急速に発展しています。同時に、人工知能によって人間の仕事が失われる可能性や、人間がみずからよりもすぐれた人工知能を作りだし、それを制御できなくなる可能性など、情報テクノロジーが引き起こすさまざまな社会的・倫理的問題についても、活発な議論が展開されています。

しかし、真の汎用人工知能や自律型ロボットはいまだ実現しておらず、実現の見通しも立っていません。このような現状をふまえれば、社会にとってより緊急性のある問いは、汎用人工知能の実現に向けた原理的な困難はどこにあるのか、汎用人工知能が実現不可能だとしたらどのような種類の人工知能ならば短期的に実現可能か、短期的に実現可能な人工知能にはどのような社会実装の可能性があるのか、といったことであると考えられます。

第2次人工知能研究ブーム期には、哲学者をはじめとする人文科学者を巻き込んで、これらの問題が活発に議論されていました。そしてそこでは、人工知能研究が直面することが予想されるさまざまな原理的問題が指摘されていました。しかし、人工知能研究そのものの停滞によって、そこで指摘された問題が十分に検討されることがないまま、議論は下火になっていきました。人工知能研究がふたたび大きく前進し始めた現在、人工知能研究の現状をふまえて、かつての人工知能の哲学(人工知能の哲学1.0)をアップデートし、研究の現状に即した新たな人工知能の哲学(人工知能の哲学2.0)を構築することが不可欠であるように思われます。

ここで重要な手がかりとなるように思われるのが、徳 (virtue) にかんする哲学的知見です。古代ギリシア以来、哲学者は、人間の知的能力、とくに実践的な能力の核心を、徳として特徴づけてきました。徳とは、ある状況において、その状況をしかるべき仕方で把握し、しかるべき感情を抱き、それにもとづいてしかるべき仕方で行為する能力です。このような実践的能力は、汎用人工知能が実現しようとしているものにほかならないように思われます。また、徳は、一群の明示的な規則によって規定することのできないものであり、感情を重要な要素とし、有徳な人を模倣することやしかるべき習慣を身につけることによって獲得されると考えられてきました。ここで徳という能力のあり方を特徴づける暗黙知、身体、感情といった概念は、人工知能の限界を論じるなかで、しばしば哲学者が言及してきたものにほかなりません。人工知能の可能性と限界をめぐる従来の哲学的議論においては、これらの概念の関係は十分に明らかにされてきませんでした。徳概念は、ここにおいても分析の鍵となるように思われます。

他方、人工知能の社会実装を考えるうえでも、第2次人工知能ブーム以降、認知諸科学にはさまざまな理論的進展が見られます。たとえば、身体化された心 (embodied mind) や拡張された心 (extended mind) といった考え方にもとづく身体性認知科学の研究は、人間の知的活動は脳内だけで行われるものではなく、そこでは身体や環境が重要な役割を果たすことを明らかにしています。このような知見は、実現可能な人工知能が人間知性の改善や拡張にどのように利用できるかを考えるうえで、重要な手がかりを与えてくれるように思われます。

これらの背景をふまえ、「人工知能は徳を持ちうるか?」、「人工知能は人間の徳の涵養にいかに役立ちうるか?」という問いを手がかりとして、人工知能の可能性と限界や人工知能の社会実装を考えるための理論的枠組を構築することが、本研究開発プロジェクトの課題です。